HISTORICAL PERSON · 1880年没

ギュスターヴ・フローベール

ルーアンの外科医の息子に生まれたフランスの小説家。1857年に『ボヴァリー夫人』を発表して写実主義を確立した。他に『感情教育』『サランボー』があり、客観的で精密な文体を信条とした。

生涯
1880年没
死亡地
フランス共和国(セーヌ=マリティーム県 / Croisset)
出生地
フランス共和国(ルーアン)
出典
世界地図
フランス共和国(セーヌ=マリティーム県)

伝記

ギュスターヴ・フローベールは、1821年12月12日にノルマンディー地方のルーアンで、外科医アシル=クレオファス・フローベールの子として生まれたフランスの小説家である。写実主義の確立者とされ、科学的な観察と客観的表現を心がけ、文体の完成に情熱を捧げた。父はルーアン市立病院の院長で、幼いころから死や病を身近に見て育った。9歳のころにはすでに物語を書こうとし、悪魔と戦う聖アントワーヌの人形芝居に夢中になった。この主題は長く彼の生涯につきまとうことになる。1831年に王立中学に入り、エルネスト・シュヴァリエやルイ・ブイエらと親しくなり、ユゴーやデュマ、ミュッセ、のちにはヴォルテール、シェイクスピア、ラブレーを読みふけった。1836年の夏、トルーヴィルの海水浴場で出会った音楽出版業者の夫人に、14歳で激しい恋心を抱き、この経験を題材にして『狂人の手記』を書いた。同じ題材は後に『感情教育』でも取り上げられる。

1839年12月、教授への抗議の嘆願活動がもとで高等学校を辞め、独学でバカロレアに合格した。1841年にパリ大学に入って父の勧めで法学を学んだが、性質に合わず苦しんだ。1844年1月、ドーヴィルへの旅行の途中で眩暈を起こして昏倒し、その後も発作が再発したため、法学を諦め、ルーアン近郊のクロワッセの館で静かに暮らすことになった。ここで執筆に専念し、『感情教育』の初稿を書き上げたが、出版は考えなかった。1846年1月に父が急死し、その1か月後には妹カロリーヌが産褥熱で亡くなり、フローベールは姪を引き取って母と3人で暮らした。同年7月、パリで11歳年上の女性詩人ルイーズ・コレと出会い、数年にわたる恋愛関係に入ったが、彼女が私生活に口を挟むことに業を煮やして、1854年に手紙を送って絶縁した。

1849年9月に『聖アントワーヌの誘惑』を完成させ、友人のマクシム・デュ・カンとブイエに読み聞かせたところ、2人は文章のロマン主義的な熱狂や単調さを非難して出版に反対した。大きな衝撃を受けたが、2人からバルザックのような身近な主題に取り組むよう勧められたことが、『ボヴァリー夫人』の胚胎するきっかけとなった。同年10月から21か月、デュ・カンとエジプトやパレスチナ、ギリシャ、イタリアなどを旅し、1851年6月に帰国して、9月から『ボヴァリー夫人』の執筆を始めた。クロワッセの自室で偏執的な推敲を繰り返し、1856年に4年半を費やして完成させた。デュ・カンの『パリ評論』に分割掲載され、1857年1月に公衆道徳違反で起訴されたが、弁護士セナールの弁論で無罪となった。同年4月に刊行された小説はベストセラーとなり、一挙に文名が確立した。「ボヴァリー夫人は私だ」という言葉は、この裁判中に語ったといわれる。

その後は古代カルタゴを舞台にした『サランボー』(1862年)を完成し、ジョルジュ・サンドと親しくなり、ツルゲーネフとも意気投合した。1866年にはレジオン・ドヌール勲章を受けた。1869年の『感情教育』は批評家に理解されず、気落ちした。1875年には財産管理を任せていた姪の夫が破産して生活が窮乏し、友人たちの奔走で得た年金に頼った。『三つの物語』のあと、最後の作品となる『ブヴァールとペキュシェ』に全力を傾けたが、1880年5月8日、完成を見ずにクロワッセの自宅で死去し、遺体はルーアンの墓地に葬られた。晩年は旧友の甥モーパッサンを愛弟子として可愛がった。

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