HISTORICAL PERSON · 1881年没

ビリー・ザ・キッド

アメリカ西部開拓時代のアウトローで、本名はヘンリー・マッカーティ。リンカーン郡戦争に関わり、逮捕後に脱走したが、21歳で保安官ギャレットに射殺された。創作で義賊として描かれ、西部劇の英雄となった。

生涯
1881年没
死亡地
アメリカ合衆国(ニューメキシコ州 / フォートサムナー)
出生地
アメリカ合衆国(ニューヨーク)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ニューメキシコ州)

伝記

ビリー・ザ・キッドは、本名をヘンリー・マッカーティといい、1859年11月23日に生まれ、1881年7月14日に没した、アメリカ西部開拓時代のアウトローである。生年月日にはパット・ギャレットの著書にある1859年11月23日説のほか、9月17日説と11月20日説があり、出生地もニューヨークのほかオハイオ州、イリノイ州、ミズーリ州など諸説あって、定まっていない。母キャサリーンと兄ジョセフ(腹違いの弟という説もある)がおり、父親は研究者の間でもよく分かっていない。母の再婚で姓はアントリムに変わった。後に州知事ルー・ウォーレスに恩赦を求めた手紙では、牧場では「キッド・アントリム」と呼ばれていたと述べている。放浪中には様々な偽名を名乗ったようだが、最終的にはウィリアム・H・ボニーを名乗り、これが墓石にも刻まれて広く知られるようになった。

家を出たのは母が死んだ十五歳のときで、最初の殺人は十七歳のときとされる。アリゾナやテキサス、メキシコ国境で牛泥棒や強盗、殺人を重ねたといわれる。リンカーン郡では、イギリス移民ジョン・タンストールの売店の用心棒となったが、商売敵との縄張り争いが拡大してリンカーン郡戦争と呼ばれる騒動に発展し、四人を射殺した。1880年12月、友人でもあった保安官パット・ギャレットに仲間とともに逮捕されたが、1881年4月18日に刑務所を脱走した。この事件は『ニューヨーク・タイムズ』で報じられ、名前が広く知れ渡った。殺害した人数は、八人または九人とされるが、二十一人とする説もあり、墓碑銘にもそう記されている。

1881年7月14日、ニューメキシコ州フォートサムナーでギャレットに射殺された。当時ビリーは丸腰で、寝室から食べ物を取りに部屋を出たところを闇討ちされたと言われ、最期の言葉はスペイン語の「誰だ?」だったとされる。しかし1882年にギャレットが出版した『ビリー・ザ・キッド、真実の生涯』では丸腰ではなかったとされ、1906年にはギャレット自身が、ビリーが銃を構えたので正当防衛で撃ったと語った。死の状況には不自然な点も多く、後に自分こそがビリーだと名乗り出た人物もいて、生存説も根強い。墓石は洪水で流されたり盗まれたりしたのち、現在の場所に安置し直されたが、記念品として削り取られるため、今は檻で囲われている。

射撃と騎乗には天賦の才があったようで、馬を走らせながら杭に止まった鳥を撃ち落としたといった同僚の証言が残る。目は青く、身長は研究者の分析で160センチ足らずの華奢な体つきだったようで、前歯が大きく、常に笑っているように見える顔だったとギャレットは記す。身なりに気を使う伊達者で、ファンダンゴの名手でもあった。口が達者で親しみやすく、州知事に送った自筆の手紙は達筆で、良質な教育を受けたことがうかがえる。スペイン語を流暢に操り、メキシコ人たちの間ではビリートと呼ばれた。

左利きだったという伝説も有名だが、残された写真が裏焼きだったという説と、右前のボタンの位置から左利きだとする説があり、議論が続いている。彼の激しく短い生涯は、まずダイムノヴェルに、のち劇や映画に取り上げられ、さまざまな伝説で彩られた。生前に知事ウォーレスが恩赦を与えようとしたという説を根拠に、2010年に正式な恩赦の請願が行われたが、12月31日にリチャードソン知事は認めなかった。2011年には彼の肖像写真が230万ドルで落札され、2021年には射殺に使われた拳銃が603万ドルで落札された。

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