伝記
耶律阿保機は、契丹(キタイ)を統一し、遼を建国した人物である。872年に生まれ、926年に没した。「阿保機」は、掠奪者を意味するあだ名「アブーチ」の音訳とされる。死後は廟号を太祖という。契丹族の耶律氏(移剌とも呼ばれる)の迭剌部の出身で、父は耶律撒剌的、母は宣簡皇后蕭氏、その長男だった。内モンゴルから華北、満洲南部にわたる地域の征服と統一を成し遂げた。
誕生にはさまざまな伝説が残る。母が夢で太陽が胸に落ちてきて身ごもり、生まれた時には室内が不思議な光と香りに満たされ、赤子はすでに3歳児ほどの体格で這い出したという。生後3か月で歩いたとも、物事を予知できたとも記されている。実際の幼少期は波乱に満ちていたとされ、祖父が部族間の争いで殺され、父や叔父たちは逃げ、本人は祖母にかくまわれたと伝えられる。契丹では遙輦氏が750年代から可汗の座を占めて唐とは良好な関係を保っていたが、九世紀末には迭剌部の有力者が不満を抱くようになっていた。阿保機の父は迭剌部の選ばれた首長で、阿保機も901年に迭剌部の首長となり、903年には契丹全軍を率いる于越に任じられて、大可汗に次ぐ地位を得た。905年には騎兵7万を率いて山西に入り、李克用と兄弟の契りを結んだ。はじめは遙輦氏の痕徳菫可汗に仕え、906年に可汗が没すると、907年に契丹の可汗に即位した(第1次即位)。
その後は室韋・越兀・烏古などの諸部を討ち、耶律氏の支配体制を固めた。911年からは弟たちの反乱が続き、剌葛・迭剌・寅底石・安端らを討って処罰した。他方で、反乱の多くを起こした一族の者たちを、王朝として栄えることができると説き、要職に就けてなだめたともいわれる。916年(神冊元年)2月11日、阿保機はあらためて契丹可汗に即位し(第2次即位)、国号を契丹、元号を神冊と定めて、キタイ人の王朝を開いた。このとき漢の宮廷の儀礼を取り入れて皇帝を称し(天皇帝の称号について杉山正明は、中国皇帝の称号の受容ではなく遊牧民の称号の漢訳だろうと述べる)、長男の耶律突欲を皇太子に立てた。部族の実力で長を選ぶ契丹の慣習に反する試みで、のちの継承はなかなかうまくいかなかったという。
政治面での功績は大きく、遊牧民と定住民を別の機構で治める二重統治体制を作り、遊牧の領内にも多くの都市を築いた。遊牧国家でありながら農耕国家の仕組みを取り入れ、漢人を積極的に登用して、匈奴以来の遊牧国家の機構をいっそう固めた。この体制は、のちの遊牧民が多様な民族を治めるときの手本になったという。文化面でも漢文化を積極的に吸収し、920年には大小2種からなる契丹文字を制定した。北宰相に蕭轄剌、北院夷離菫に耶律斜涅赤らを任じて国を運営させ、西は突厥・吐谷渾・タングート・ウイグルなど、北は女真、南は中国の十余州、東は渤海を討って服属させ、あるいは占領した。長男の耶律突欲を王に封じて東丹国を作らせたのもその一環である。
924年7月22日、皇后、皇太子、大元帥、宰相、諸部の長を集め、3年後の丙戌の年の初秋に必ず帰着するところがあると語った。その言葉どおり、926年7月26日(西暦9月6日)、渤海遠征からの帰路、扶余府で亡くなった。死期を正確に予知していたことになるが、北京大学の羅新教授は、おそらく自殺ではないかと推測している。皇后は述律皇后で、子に突欲、のちに太宗となる耶律堯骨、耶律李胡、耶律質古らがいる。
同じ年に亡くなった人物
- ギヨーム2世 (アキテーヌ公) (926年)
- コルドバのペラギウス (926年没)
- Wiborada (926年)
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