HISTORICAL PERSON · 929年没

シャルル3世 (西フランク王)

単純王と呼ばれた西フランク王。911年にノルマン人の長ロロにノルマンディーを与えて和解し、同年ロタリンギア王にもなった。諸侯に嫌われて922年に廃位され、923年に囚われ、幽閉先で没した。

生涯
929年没
死亡地
フランス共和国(ソンム県 / ペロンヌ)
出生地
フランス共和国(ペロンヌ)
出典
世界地図
フランス共和国(ソンム県)

伝記

シャルル3世は、879年9月17日に生まれ、929年10月7日に没したカロリング家の西フランク王である。「単純王」と呼ばれる。西フランク王ルイ2世吃音王と二人目の妃アデライードの間に、父の死後に生まれた。異母兄の二人は共同で王位を継いだものの相次いで早世し、885年には東フランク王カール3世が西フランク王を兼ね、幼いシャルルはその後見を受けた。ただ、当時の王国はノルマン人、サラセン人、マジャール人の侵入に苦しんでおり、幼い子が王位に就くことは難しいと見られて、諸侯は彼を王にしなかった。887年にカール3世が失脚すると、885年から886年にかけてノルマン人に包囲されたパリを守った英雄、ロベール家のウードが選ばれた。聖俗の諸侯が力を付け、王を世襲でなく選挙で決める時代になっていたのである。

893年1月28日、シャルルはランスのサン=レミ聖堂で、カロリング家を支持するランス大司教フルクによって聖別され、戴冠した。こうして二人の王が並び立ち、争いは約3年続いた。やがてウードはセーヌ川以北をシャルルに渡し、シャルルを次の王に指名して898年1月に没した。19歳のシャルルは、ここでようやく西フランク全体の王となった。その治世には、フランドル、ブルゴーニュ、アキテーヌ、ロベール家のフランシアなどの大きな領邦が、それぞれ独立性と力を強めていった。王権はこうした対抗勢力に阻まれて苦しんだ。

治世の大きな出来事は911年である。侵入を繰り返すノルマン人の首長ロロとサン=クレール=シュール=エプト条約を結び、ノルマンディーを与えてノルマンディー公に封じた。ロロは洗礼を受け、シャルルの娘ジゼルを妻とした。ロロは、セーヌ河岸の略奪をやめることも約束したとされる。同じ911年、東フランクでルートヴィヒ4世が没してカロリング家の世襲が絶えると、ロタリンギア(ロレーヌ)の貴族はシャルルに臣従し、彼はロタリンギア王にもなった。私生活では、907年に西ザクセンの伯ディートリヒの娘フレデルナと結婚した。フレデルナの姉妹マティルデは、909年に東フランク王ハインリヒ1世の二度目の妃となっている。フレデルナが917年に没すると、919年にイングランド王エドワード長兄王の娘エドギフと再婚し、ここに後のルイ4世が生まれた。しかし、ロタリンギアへの執着や部下への処遇の不公平から、ロレーヌ公ジルベールと不仲になり、西フランクの諸侯にも嫌われた。

922年、シャルルは反乱を起こされて廃位され、反乱を率いたウードの弟ロベールが王に選ばれてロベール1世となった。シャルルはロレーヌへ逃れ、923年にノルマン兵を率いてソワソンで戦い、ロベールを討ち取った。しかしロベールの息子ユーグ大公と娘婿ラウールに敗れた。同年、ロベールの義弟ヴェルマンドワ伯エルベール2世に捕らえられ、翌年ペロンヌ城の塔に移された。ラウールが王となった。シャルルを捕らえたエルベールは、927年ごろには一時ラウールと争い、シャルルを復位させようとする動きも見せたとされるが、実現しなかった。妃エドギフは幼い息子、のちの西フランク王ルイ4世(在位936年から954年)を連れて、イングランドの実家へ亡命した。925年にはロタリンギアもドイツ王ハインリヒ1世のもとに戻った。シャルルは929年10月7日、幽閉されたまま没し、ペロンヌ近くのサン=フルシー教会に葬られた。なお、「シンプル」と訳される渾名は、もとは「誠実、率直」の意味だったが、のちに愚かの意に誤解されたといわれる。

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