HISTORICAL PERSON · 1882年没

ブルーノ・バウアー

ドイツの神学者・哲学者・歴史学者で、青年ヘーゲル派の代表的存在。無神論に基づいてキリスト教やユダヤ教を批判し、1842年にボン大学講師職を剥奪された。若きマルクスもその影響下でヘーゲル哲学を学んだ。

生涯
1882年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(ベルリン / ノイケルン区)
出生地
ドイツ連邦共和国(アイゼンベルク (テューリンゲン))
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(ベルリン)

伝記

ブルーノ・バウアーは、1809年9月6日に生まれ、1882年4月13日に没したドイツの神学者・哲学者・歴史学者である。青年ヘーゲル派(ヘーゲル左派)の代表的な存在で、無神論にもとづいてキリスト教やユダヤ教を批判し、この派の主導的な役割を果たした。若き日のカール・マルクスも、バウアーの影響のもとでヘーゲル哲学を学んだ。弟のエトガー・バウアーも青年ヘーゲル派を代表する思想家である。ザクセンで陶磁器の絵付け職人の長男として生まれ、聖職者になることを期待されてベルリン大学へ進んだ。当時ドイツ中で評判を呼んでいたヘーゲルの講義を聞き、20歳でカントの美学に関する論文を書いて、ヘーゲルから絶賛されたという。ヘーゲルは1831年に死去したが、1834年には学位を得ると同時に神学部の講師として教壇に立った。このころは「忠実なヘーゲル学徒」(老ヘーゲル派)として、ヘーゲルの講義をし、マールハイネッケらとともにヘーゲルの宗教哲学の編纂に携わった。1839年にはボン大学へ移り、私講師として教えた。

1841年に『無神論者・反キリスト教徒ヘーゲルに対する最後の審判ラッパ』を著し、神への信仰は普遍的自己意識の獲得を妨げると批判し、教会と国家が結びついたドイツの体制も批判した。しかしプロイセン政府の検閲により、1842年春にボン大学の講師職を剥奪された。その後はベルリンのヘーゲル左派のグループ「フライエン」の代表的な人物となり、フォイエルバッハやシュティルナーらと国家・政治・宗教を語り合った。1842年には福音書の批判を発表し、ヘーゲル右派と決別して左派に移った。シュトラウスが福音書を「神話」とみなしたのに対し、バウアーは福音書の内容を、福音書記者たちの自己意識による「創作」だと論じた。1843年の『暴かれたキリスト教』では、神への拝跪による思考の喪失を批判して発禁処分になり、同年社会主義者ヴィルヘルム・マルが縮約版を刊行した。

同じ1843年の『ユダヤ人問題』でバウアーは、ユダヤ人への圧迫の原因はユダヤ教の偏狭な民族精神にあるとして、ユダヤ教徒が「空想上の民族性」にしがみつく限り解放はありえず、それはキリスト教が自分の特権を保持しようとする限り解放されないのと同じだと批判した。すべての人間が宗教から解放されなければならないとして、ユダヤ人だけを解放の対象とみなす議論に反対した。この書は、19世紀の最も知的で鋭い反ユダヤ主義の著作の一つとも評されている。1848年のドイツ三月革命では、中途半端な意識のまま運動に加わる人々を「大衆」と呼んで痛烈に批判し、1849年の『ドイツ市民革命論』で、市民階級は国王と妥協して労働者を締め出したと論じた。これ以降は反ユダヤ主義の傾向を鮮明にしたとされる。

このころヘーゲル左派は事実上消滅し、バウアーは政治・歴史の著作活動を活発にした。『ロシアとゲルマン』(1853年)、『ロシアとイギリス』(1854年)などを書き、晩年にはビスマルクやディズレーリを論じ、ヨーロッパ世界の崩壊という認識を示した。『キリストと皇帝たち』(1877年)では、キリスト教はローマ帝政期のストア哲学の精神から、ユダヤ教を骨格として誕生したと論じた。孤独のうちに亡くなったシュティルナーの遺骸を引き取って埋葬し、孤独だった頃のニーチェに注目した数少ない人物でもあった。

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