伝記
メアリー・トッド・リンカーンは、1818年12月13日にケンタッキー州レキシントンで生まれた、第16代アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーンの妻である。銀行家ロバート・スミス・トッドとエリザベスの7人の子の4番目で、名門トッド家の一員として育った。奴隷を所有する裕福な大家族だったが、メアリー自身は奴隷を所有したことがなく、成人してからは奴隷制に反対するようになったという。6歳の1825年に母が出産で亡くなり、翌年に父は再婚している。継母との関係については、相反する証拠がある。マダム・マンテルの寄宿学校でフランス語と文学を中心に学び、フランス語は流暢に話せるようになり、ダンスや演劇、音楽、社交の作法も身につけた。20歳のころには、機知に富み社交的で、政治にも理解がある女性とみなされていた。家族と同じくホイッグ党支持だった。
1839年10月、イリノイ州の州都スプリングフィールドで、姉エリザベスの家に身を寄せた。姉の夫ニニアン・エドワーズが後見人となった。社交界では人気があり、のちに民主党の政治家となる若い弁護士スティーヴン・ダグラスらに求愛されたが、同じホイッグ党のリンカーンを選んだ。リンカーンとは姉の家で出会い、政治への関心を通じて親しくなったが、姉夫妻はリンカーンの身分の低さや不確かな将来を理由に交際に反対した。二人の婚約は1841年の元日に破棄されたが、1年半後にひそかに交際を再開し、1842年11月4日に結婚した。メアリーは23歳、リンカーンは33歳だった。社交的で派手好きなメアリーは、リンカーンとまったく正反対の性格だったとされる。結婚後、リンカーンは弁護士業で着々と成功し、年収は知事の報酬と同額の1200ドルに達した。その代わり、巡回裁判所を回らねばならず、1日に50キロも馬を飛ばすこともあった。
二人の間には4人の息子、ロバート、エドワード、ウィリアム、トーマスが生まれたが、長男ロバートを除く3人が若くして死んだ。三男ウィリーは、リンカーンが大統領在任中に腸チフスで亡くなっている。1861年からはファーストレディとなり、ホワイトハウスで舞踏会を催し、多額の費用をかけて改装するなど、浪費が批判の的ともなった。1865年4月14日、ワシントンのフォード劇場で夫の暗殺に居合わせたあと、1871年には末の息子タッドを18歳で亡くした。もともと精神的に不安定なところがあり、頭痛もたびたび起こして、1863年の頭部のけがで悪化したともいう。夫の死とタッドの死を経てますます異常をきたしたため、長男ロバートにより精神病院に入れられた。4か月後に姉のエリザベスが身元引受人になって退院したが、最後に残った子のロバートとは、この出来事により生涯疎遠となった。
その後は、ヨーロッパで数年を過ごした後、スプリングフィールドにある姉の邸宅で、事実上の世捨て人として暮らし、1882年7月16日に63歳で亡くなった。リンカーンの妻としては悪妻との評判が強く、嫉妬深く、ヒステリー症状のため家庭生活はあまり幸福ではなかったとされる。デール・カーネギーは『人を動かす』で、リンカーンが暗殺されたことは、彼の結婚にくらべれば悲劇というに足りないとまで言った。
同じ年に亡くなった人物
- ジュゼッペ・ガリバルディ (1882年没)
- カール・フリードリッヒ・ツェルナー (1882年没)
- カタリナ・イヴァノヴィッチ (1882年没)
- テオドール・クラク (1882年没)
- ミハイル・スコベレフ (1882年没)
同じ地域に関係する人物
- ジョゼフ・L・ドゥーブ (2004年没)
- ジョージ・エンゲルマン (1884年没)
- ベイビー・ドッズ (1959年没)
- ヨアン・ペテル・クリアーノ (1991年没)
- トーマス・クラウダー・チェンバリン (1928年没)