伝記
ハルパロスは、マカタスの子で、マケドニア王アレクサンドロス3世(大王)に仕えた財務官である。生年は不明で、紀元前323年に没した。アテナイの政界を巻き込んだ疑獄事件、いわゆるハルパロス事件を起こした人物として知られる。
ハルパロスはアレクサンドロスの親しい友人のひとりで、アレクサンドロスが王になる前に父ピリッポス2世と仲違いして追放されたとき、いっしょに追放された一人だった。足に障害があって兵役を免れていたとも伝えられ、将軍としてではなく文官として、紀元前334年に始まったペルシア遠征に同行したとされる。大王は余暇の読み物を求めてハルパロスに連絡し、アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデスの悲劇や、ピリストスの歴史、ピロクセノスとテレステスの頌歌が送られたという。紀元前331年にアレクサンドロスがシリアを制圧すると、フェニキアで軍用金庫を管理する財務官に任じられた。このときタウリスコスという人物にそそのかされてメガリスへ脱走したが、王との友情のためか、罪を咎められることなく復職した。翌紀元前330年には、エクバタナの財物を管理するため同地へ転任した。
アレクサンドロスがインドへ遠征すると、ハルパロスはバビュロンの財物の管理を任された。ところが、王はもう生きて帰らないだろうと考え、預かっていた公金を横領して放蕩にふけった。アテナイから呼び寄せたピュトニケという高級娼婦を寵愛して多額の金銭を費やし、彼女が死ぬと200タラントンという大金で記念碑を建てた。彼女とは結婚さえしていたともいわれる。その死後はグリュケラという高級娼婦を愛し、自分に冠を捧げるときは彼女にも捧げさせ、女王と呼ばせて、像も立てた。
だが予想に反して、紀元前323年にアレクサンドロスはインドから帰還し、帰らぬものと高をくくって好き勝手をしていた太守たちを粛清しはじめた。ハルパロスは身の危険を感じ、5000タラントンの銀と6000人の傭兵を連れ、30隻の船でアテナイへ逃れた。大王はなぜかハルパロスを深く信頼していたようで、逃亡を知らせたエフィアルテスとキッソスを、嘘を訴えたとして捕らえて監禁したという。なお、別の記述では、ハルパロスのアテナイ到来は紀元前324年とされ、アテナイでは一時投獄されたともいわれる。
アテナイに着いたハルパロスは、有力者たちに金をばらまいて支持と保護を得ようとした。しかしマケドニア側から身柄の引き渡しを要求されると、民会の票決で国外退去を命じられた。買収された者の中にはデモステネスもいたとされ、のちに追訴を受けて追放された。民会はデモステネスの提案でハルパロスの金を保管することにし、委員会が数えると、本人が700タラントンと申告したのに350タラントンしかなかったという。ハルパロスが逃げてクレタ島へ向かうと、デモステネスは世論の怒りを買い、アレオパゴス会議の調査を経て、20タラントンの不正使用で訴えられた。1,500人の陪審による裁判で有罪とされ、50タラントンの罰金を科されたが、払えず投獄された。数日後に脱走し、アテナイ人はやがて判決を覆した。一方フォキオンは、デモステネスの35倍の金銭を示されながら拒み、親切心からハルパロスにアテナイを去るよう忠告した。ハルパロスはタイナロン岬からクレタ島へ向かい、そこで付き従っていた友人のひとりティブロンに殺された。従者に殺されたともいわれ、マケドニア人パウサニアスによる暗殺説もある。古代の哲学者ディオゲネスは、悪事を重ねながら贅沢に暮らすハルパロスを、神々に不利な証拠だと語ったと伝えられる。
同じ年に亡くなった人物
- Balacrus (紀元前323)
- ディオゲネス (犬儒学派) (紀元前323年没)
- アテナイのリュクルゴス (紀元前 323年)
- メレアグロス (将軍) (紀元前323年没)
- シシュガンビス (紀元前323年没)
同じ地域に関係する人物
- キリロス・ルカリス (1637年没)
- ヴィツェンツォス・コルナロス (1613年没)
- フランソワ (ボーフォール公) (1669年没)
- ウォルター・ラサリー (2017年没)
- Lucius Cornelius Sisenna (紀元前66)