伝記
トルピミル2世は、928年から935年までクロアチアの王であったとされる人物である。トルピミロヴィチ家の出とされるが、史料に名が見えない歴史学上の創作だとする見方もあり、実在そのものが確実ではない。935年に没したと伝えられる。
従来の年代記述、すなわちフェルド・シシッチの説によれば、トルピミル2世は公ムンツィミルの子で、初代クロアチア王トミスラヴの弟にあたる。ただし、家族についてわかっていることは少なく、ムンツィミルの子でトミスラヴの弟だったというのも「おそらく」の域を出ない。
彼の治世についての記述は、東ローマとの関係の変化から始まる。927年にブルガリアのシメオンが死ぬと、東ローマ帝国はクロアチアの軍事的な支援を必要としなくなり、同盟を解消したとされる。それまで東ローマは、西からシメオンを脅かす存在としてクロアチアに大きく頼っていた。トミスラヴはブルガリアの拡大を食い止めることに成功していたが、東ローマはダルマチア属州に対するクロアチアの優位を覆し、この地を再び自らの管轄に戻した。もっとも、東ローマによる統治は名目的なものにとどまったという。
教会の面でも逆風があった。トミスラヴの時代からスプリトの会議をめぐって、ラテン語による典礼を支持する側とスラヴ語の典礼を支持する側との対立が続いていた。ダルマチアの首位権を主張するスプリトの大司教とニンの司教との長い争いである。928年、教皇レオ6世はスプリト側に立ってニン司教区の廃止を決め、スラヴ語典礼の中心人物でクロアチアの尚書役でもあったグルグル司教をスクラディンへ移した。これはスラヴ語典礼を支持する人々にとって屈辱的な敗北と受け止められたとされる。
一方、東ローマ皇帝コンスタンティノス7世の著した『帝国統治論』には、テルピメルの時代のクロアチアが、アドリア海全域で交易を行う相当な商船隊をもっていたと記されている。ただし、ここにいうテルピメルが9世紀のトルピミル1世なのか、トルピミル2世なのかについては議論がある。軍船だけでなく商船も備えた強力な海上の力があったという記述である。このテルピメルの後継者は、その子クレシミル1世であった。トルピミル2世についての確かな史料はこの記述に限られており、その実像には不明な点が多い。
同じ年に亡くなった人物
- アブー・アール=ハッサン・アッ=アシュアリー (935年)
- エブル・マンゼール (935年没)
- カエサレアのアレサス (935年)
- ヴァーツラフ1世 (ボヘミア公) (935年没)
- ドラホミーラ (935年)
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