伝記
ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナーは、1813年5月22日にザクセン王国のライプツィヒで生まれたドイツの作曲家、指揮者、思想家である。ロマン派オペラの頂点であり、楽劇の創始者であることから「楽劇王」の別名で知られる。ほとんどの自作の歌劇で台本を単独で執筆し、理論家や文筆家としても知られた。父カールは警察の書記を務める下級官吏で、フランス語に堪能だったため、駐屯していたナポレオン軍との通訳にたびたび駆り出されたが、リヒャルトの生後まもなく亡くなった。母ヨハンナは、父と親交のあった俳優ルートヴィヒ・ガイヤーと再婚した。一家は音楽好きで、家庭内でよく演奏会を開き、兄弟の多くも音楽で身を立てた。とりわけ一家と親交のあったウェーバーから強い影響を受け、ウェーバーは生涯にわたって敬意を払い続けた数少ない人物となった。
15歳のころにベートーヴェンに感動して音楽家を志し、同時に劇作にも関心を持った。1830年にはベートーヴェンの『交響曲第9番』をピアノ独奏用に編曲してショット社に出版を依頼したが、断られ、翌年にも楽譜を手渡して再度頼んだものの、編曲の不備が多く出版には至らなかった。1831年、18歳でライプツィヒ大学に入学し、哲学や音楽を学んだが、数年後に中退した。聖トーマス教会のカントル、テオドール・ヴァインリヒから対位法の指導も受けた。1832年に交響曲ハ長調を完成させ、最初のオペラ『婚礼』を作曲した。1833年にヴュルツブルク市立歌劇場の合唱指揮者となったが、オペラ作曲家としては芽が出ず、貧困に苦しんだ。
1834年にマクデブルクの劇団の指揮者となり、女優のミンナ・プラーナーと出会って恋仲になった。1836年に『恋愛禁制』を作曲したが劇団が解散し、ケーニヒスベルクで二人は結婚した。しかし関係は不安定で、ミンナは幾度も恋人と駆け落ちした。1837年にはドレスデンやリガなどで劇場指揮者をしながら転々とし、1839年3月にリガの劇場を解雇された。債権者から逃れて夫妻はロンドンへ密航し、この時に暴風に襲われた体験が『さまよえるオランダ人』の原型となった。パリでは、マイアベーアの紹介で、編曲や写譜の仕事を得て、小説『ベートーヴェン巡礼』を連載した。しかしパリで認められることはなく、次第にパリ楽壇への敵意を募らせた。
1842年4月に失意のうちに故郷ザクセンのドレスデンへ戻り、10月20日に『リエンツィ』を初演して大成功を収め、ようやく注目された。この成功で宮廷楽団の指揮者を打診され、翌1843年2月に任命された。1844年12月には、ウェーバーの遺骨をドレスデンへ移す式典の演出を担当し、葬送音楽を作曲して追悼演説も行った。1845年にオペラ『タンホイザー』を作曲して上演し、当初は不評だったが、上演を重ねるうちに評価が上がった。1846年には、忘れられていたベートーヴェンの『交響曲第9番』の演奏を計画して、猛反対を押し切り、成功させた。以後、この交響曲は名曲としての評価を確立したという。
1848年に『ローエングリン』を作曲したが上演されなかった。同年の三月革命ではドレスデンの祖国協会に加わり、共和主義を説く演説を行ったが、共和主義者と王党主義者の双方から攻撃された。レッケルを通じてバクーニンと知り合い、1849年4月には革命を論じる論文を書いた。19世紀後半のヨーロッパに広く影響を及ぼした中心的な文化人の一人として、1883年2月13日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- エフィム・プチャーチン (1883年没)
- ロレンツ・ディーフェンバッハ (1883年没)
- フリードリヒ・フランツ2世 (メクレンブルク=シュヴェリーン大公) (1883年没)
- ロバート・モファット (1883年没)
- シャルル・バルグ (1883年没)
同じ地域に関係する人物
- フランコ・バザリア (1980年没)
- マリアノ・フォルトゥーニ・イ・マドラソ (1949年没)
- イサアク・アブラバネル (1508年没)
- レオナルド・ドナ (1612年没)
- ジョヴァンニ・モチェニーゴ (1485年没)