伝記
ベドルジハ・スメタナは、1824年3月2日にボヘミア北部のリトミシュルで生まれたチェコの作曲家、指揮者、ピアニストである。ドイツ語名のフリードリヒ・スメタナでも知られる。父フランティシェクはビール醸造の経営に携わり、ナポレオン戦争中にフランス軍へ衣類と食糧を供給して中流階級の富を築いた人物で、1823年にヴァルトシュタイン伯のビール醸造者としてリトミシュルへ移った。母バルボラは父の3番目の妻で、ベドルジハは3番目の子で長男であった。父は生活ではドイツ語を使っていたため、子供たちはかなり年を取るまで正式なチェコ語を知らなかった。
父は若いころにヴァイオリンを少し習った程度だが音楽が好きで、仕事の後に友人と弦楽四重奏を楽しんでいた。ベドルジハは父の影響でヴァイオリンを学び、この合奏にも加わった。のちにピアノも本格的に習い、ヴァイオリンよりピアノを気に入ったという。1830年、6歳でリトミシュルの哲学学校で公に演奏し、オベールの歌劇『ポルティチの唖娘』の序曲のピアノ編曲を弾いて好評を得た。1831年に父がチェルニン伯に仕え、一家はボヘミア南部の町へ移り、そこで小学校とギムナジウムに通いながら、作曲を習って、8歳で小品を書いた。イフラヴァのギムナジウムではホームシックで勉強できず、1836年にニェメツキー・ブロトの修道会の学校に転校して、幸せな少年期を過ごし、のちの進歩派の作家ハヴリーチェク・ボロフスキーと友人になった。
ボロフスキーに刺激されてプラハ行きを父に請い、反対されたすえに許されて、1839年にプラハへ移った。しかし学校になじめず、コンサートやオペラに通う日々を送り、リストのリサイタルを聴いて、音楽家の道こそ喜びを見出せる唯一の道だと確信した。日記には「作曲ではモーツァルト、テクニックではリストになるために」と記した。学校の無断欠席が父に知られてプラハから連れ戻されたが、プルゼニで年上の従兄の世話を受けて1843年に学校を卒業した。この間に、カテジナ・コラージョヴァーと恋愛関係になった。
1843年8月、わずか20ガルデンを持ってプラハへ移ったが、父の財産は少なくなり、金銭の援助は得られなかった。プラハ音楽大学の長ヨゼフ・プロクシュを紹介されて、1844年1月に生徒となり、貴族トゥーン家の子供たちのピアノ教師の職も得た。それから3年間、教えながら理論と作曲法を学んだ。1846年にはトゥーン家でシューマン夫妻に自作のピアノソナタを見せたが、ベルリオーズの影響が強すぎるとして認められなかった。1847年に職を辞して西ボヘミアへの演奏旅行に出たが、支援が乏しく中止した。1848年のプラハの民主化運動では、旧友ボロフスキーと再会し、愛国的な楽曲を書いた。
プラハで成功できず、のちにスウェーデンのヨーテボリへ移住し、音楽教師や聖歌隊指揮者として著名になって、大規模なオーケストラ曲を書き始めた。1860年代初頭、オーストリア政府の姿勢が自由主義的に変わると、プラハへ戻った。1866年に、プラハの仮劇場で『ボヘミアのブランデンブルク人』と『売られた花嫁』が初演され、彼は同劇場の指揮者となったが、その指揮ぶりは、リストやワーグナーの前衛的な考えを用いると見られ、論争の的になった。健康も悪化して1874年に職を辞し、その末ごろに完全に失聴した。6つの交響詩から成る『わが祖国』は、チェコの歴史や伝説や風景を描いた作品で、第2曲の「ヴルタヴァ」が特に著名である。精神を蝕む病のため、1884年に保護施設に収容され、まもなく亡くなった。
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