HISTORICAL PERSON · 943年没

ガギク1世

アルメニアのアルツルニ家の貴族で、ヴァスプラカンの王。アルメニア王の称号も主張した。

生涯
943年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

ガギク一世アルツルニ(879/880年生、943年没とされる)は、アルメニア南部のヴァスプラカンを治めたアルツルニ家の貴族である。904年に公として家を継ぎ、908年からは王と称してヴァスプラカンを支配した。

当時のアルメニアは7世紀末からアラブの支配下にあり、ウマイヤ朝、のちにアッバース朝のカリフを代表する総督が置かれていた。9世紀以降はビザンツ帝国との戦場にもなった。総督は各地にアルメニア人の首長を置いて権威を固めようとし、ヴァスプラカンも例外ではなかった。これに対してアルメニアの貴族たちは、自らの君侯を立てて勢力を広げていった。

ガギクは、ヴァスプラカン公グリゴル・デレニクと、アルメニア王アショト一世の娘ソフィア・バグラトゥニの次男に生まれた。父は877年に伏兵に殺されたとも、887年に死んだともされる。残された兄弟のガギク、アショト・サルギス、グルゲンは一族の者の摂政のもとに置かれた。この摂政が王スムバト一世の命じた軍事行動の最中に離反すると、ガギクはこれを殺し、摂政の座はアショト・サルギスに移ったとされる。スムバト一世は叔父として甥たちとの和解をはかり、ガギクを将軍に、グルゲンを総督に引き上げた。しかしアショト・サルギスはアッバース朝の代理人であるアゼルバイジャンのサージュ朝の首長への臣従を選び、弟のガギクを人質として送った。7か月後にグルゲンと交代したが、グルゲンは虐待に耐えかねて逃げ出した。首長は国に侵入し、901年に死ぬまで軍事占領を続けた。

903年にアショト・サルギスが死ぬと、ガギクは904年に家を継いだ。財産は兄弟で分けられ、ガギクが北西部を、グルゲンが南東部を受け継いだ。二人は仲がよく、923年ごろにグルゲンが死ぬまで協力して統治にあたった。一族の年代記作者トヴマ・アルツルニは、これを調和した協力の手本と記したとされる。ガギクは反乱や家臣の離反を経て軍事と政治の才を磨き、ヴァスプラカンに点在するイスラム教徒の拠点を減らしていった。ヴァン湖東岸の難攻不落とされる城塞アミュクを奪うと、ウルミア湖周辺のイスラム教徒の指導者たちが反撃に出た。さらにモクス地方のバグラト家の君侯にも支配を広げ、領地を一つにまとまった勢力にしたため、アニのバグラト家と競い合う存在になった。

年代記作者によれば、アミュクの占領はスムバト一世の欲を刺激した。王は城塞を自分の総督に与え、総督はそれをガギクに非常に高い値で売り戻したという。また、ナヒチェヴァンをめぐっても両家は対立した。ここはヴァスプラカンに歴史的に属する土地だったが、スムバト一世が902年にシュニク家のスムバトに与えていた。ガギクはその返還を求めた。そのころサージュ朝の首長ユースフは、カリフのムクタディルと争っていたが、のちにカリフと折り合い、ナヒチェヴァンの争いに乗じてガギクと結び、908年に彼を王に戴いた。アルメニアの諸王家を分断し、自らを調停者の位置に置いて、バグラト家に対抗するための戴冠だったと伝えられる。ビザンツ帝国もガギクの国を認め、アルメニアの最有力者が名乗る「諸公の公」の称号を授けた。924年にはアルメニアの総主教ヨハネス五世が、イスラム教徒に支配されるドヴィンを離れてヴァスプラカンに移り、王の正統性はいっそう強まった。ガギクはユースフの没後、バグラト家のスムバトの子で後継者のアショト二世と結ぶ側に回った。治世には建設事業も盛んで、ヴァン湖の島に建つ聖十字架大聖堂の創建者として名高い。没年は936/937年とも943/944年ともされ、王位は息子が継いだ。

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