HISTORICAL PERSON · 945年没

Kresimir I of Croatia

935年から945年までのクロアチア王で、トルピミル家の一員。治世の記録は乏しいが、軍事力を保ったと伝わる。死後、息子のミロスラヴ、次いでミハイロ・クレシミル2世が王となった。

生涯
945年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

クレシミル1世は、トルピミロヴィチ家に属するクロアチア王で、935年ごろから945年に没するまで在位した。父はトルピミル2世で、その長子として王位を継いだとされる。ポーランド語の記述では、クロアチア初代の王トミスラヴ1世の孫、あるいは甥の子にあたるともいわれる。

その治世について伝わることは、きわめて少ない。確かなのは、父の死後に王位に就いたこと、そして約10年の在位のあいだ、父や、父と並んで語られる王トミスラヴ1世の方針を引き継いだことである。すなわち王権の強化と強力な軍の整備に努め、受け継いだ軍事力と国境を保ったとされる。ビザンツ皇帝コンスタンティノス7世の『帝国統治論』は、クロアチアの軍事的な力が維持されたことを伝えるが、この書に彼が登場するのは、クロアチア人の国の君主としてであり、後継者が子のミロスラヴであると記されている程度である。一説には、その軍勢は歩兵10万、騎兵6万、船160隻に及んだとされる。『ドゥクリャ司祭の年代記』によれば、年下の弟ペタル(ペータル)はドゥクリャとゼタの統治者、あるいはドゥクリャ公の称号を得たという。

945年にクレシミル1世が没すると、まず年長の子ミロスラヴが王となったが、ほどなく、ミロスラヴを支持する者と弟のミハイロ・クレシミル2世を支持する者との間で内戦が起こった。ミロスラヴは949年に、バン(総督)のプリビナによって倒され、プリビナはその弟であるミハイロ・クレシミル2世を王位に就けたとされる。ミハイロ・クレシミル2世の在位は949年から969年である。

この兄弟の争いはクロアチアにとって大きな損失となった。ナレンタ人にヴィス島とラストヴォ島を奪われ、セルビアの君主チャスラヴ・クロニミロヴィチはヴルバス川の国境を固めてボスニアの一部を手に入れ、アドリア海の島々の一部はヴェネツィア人の手に渡ったという。

名の由来についても議論があり、スラヴ語に由来して「平和のうちに輝く者」を意味するとする説と、ラテン語で堅信を受けた者を指す語に由来するとする説とがある。後者は、当時のクロアチアがカトリックの国であったことを裏づけるものと説かれている。

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