伝記
リラのイオアンは、正教会の聖人で、克肖者リラの聖イオアン、リラの成徳なるイオアンとも呼ばれる。ブルガリア語ではスヴェティ・イヴァン・リルスキである。876年ごろに生まれ、946年ごろに没したとされる。記憶日は10月19日で、ユリウス暦を用いる正教会では11月1日にあたる。ブルガリアの首都ソフィアから117キロメートルの、キュステンディル州リラ自治体にあるリラ修道院を創建した人物として知られ、ブルガリア正教会で特に崇敬されるが、他の地域の正教会でも敬われている。リラ山地は3000メートル近くに達するバルカン半島で最も高い山々で、修道院は1983年に世界遺産に登録された。以下は史実の記録ではなく、教会に伝わる聖伝にもとづく概略である。
聖伝によれば、イオアンはスクリノに生まれ、幼いころからハリストス(キリスト)を愛していた。成長すると財産をすべて貧しい人々に分け与えて修道士となり、高山にのぼって修道生活を始めた。しかし蛮族の侵略が起こるようになると、その地を離れてリラの荒野へ赴き、昼も夜も熱心に神へ祈りを捧げた。約60年にわたって無人の荒野で暮らし、主な食べ物は野生の果実だったが、神がイオアンのために果実を豊かに実らせたとされる。
別の伝えでは、イオアンはリラ山地の森の奥深い洞窟を住まいとし、木の幹を削って寝床にしたという。草や果実を自分で集めて食べていた。あるとき羊飼いと知り合い、背中の痛みを訴える羊飼いのそばで長く祈ると、翌日には痛みが癒えていた。羊飼いは礼を述べ、その後は訪れるたびにイオアンから草や果実を受け取り、代わりに乳を届けた。さらに、森を狂ったように駆け回る男を二人で捕らえて洞窟に連れてくると、数日の祈りののちに男は癒えたという。こうした奇蹟の噂は周辺の諸国へ広まり、多くの人が癒しを求めて訪れるようになった。荒野の隠者だったイオアンを偶然に見つけたのは牧人であったと伝えられる。やがて敬虔な人々がイオアンのもとへ移り住み、聖堂や修道院を建てた。イオアンはこれらの人々を慈悲深く導き、多くの奇蹟を行ったという。洞窟のそばには、ある裕福な人物が感謝のしるしとして小さな聖堂を建て、周辺にはさらに大きな聖堂も建てられていったと語られる。弟子たちが洞窟で共に暮らすことをイオアンは断ったため、洞窟の入口の周りに数十軒の集落ができたともいう。
ブルガリア皇帝ペトル(ペタル1世、在位927年から968年)も、イオアンをたいへん尊敬していたと伝えられている。ペトルは首都ヴェリキ・プレスラフから440キロメートルを旅して訪れ、洞窟近くの山の頂に陣を構えた。使いの者に金銭や贈り物、食べ物を持たせたが、イオアンは皇帝に会おうとせず、食べ物だけを受け取って、金銭や贈り物は断ったという。使いの者たちの懇願を受けて、夜に向かいの山の頂へ行き、松明をかざして皇帝に敬意と感謝の挨拶をすることは承知したとされる。
イオアンは946年ごろに永眠した。数年後、不朽体はソフィアに移され、イオアンの名を冠した聖堂が建てられた。その後、イオアン・アサンが、奇蹟が現れたイオアンの不朽体をテルノヴォに移して安置した。ブルガリアでは、1999年から1レフ紙幣にその肖像が用いられ、2026年のユーロ導入にともない、1ユーロ硬貨にも受け継がれることになった。南極のオフリドの聖クリメント基地にも、リラの聖イオアンの名を持つ聖堂がある。
同じ年に亡くなった人物
- アブー・バクル・シブリー (946年(推定))
- イブラーヒーム・イブン・スィナーン (946年)
- マリヌス2世 (ローマ教皇) (946年没)
- エドギタ (946年没)
- アブー・バクル・スーリー (946年)
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