伝記
アンティゲネスは、マケドニア王ピリッポス2世とアレクサンドロス3世(大王)に仕えた将軍で、紀元前316年に没した。紀元前340年のペリントス攻囲に参加した際、矢を受けて片目を失った。仲間が矢を抜いてやろうと言ったのに耳を貸さず、敵を追い込むまで攻撃をやめなかったという。アレクサンドロスのアジア遠征ではヒュパスピスタイ(近衛歩兵)の一員として従い、紀元前326年のヒュダスペス河畔の戦いで初めてその名が見える。インド遠征のころ、古参のヒュパスピスタイは「銀楯隊」と呼ばれるようになったとされる。
紀元前324年のスサでの合同結婚式のとき、アンティゲネスは借金をしていると偽ってアレクサンドロスから金を受け取った。これが発覚して宮廷から追放され、官位を剥奪されたが、意気消沈して自殺しかねない様子を見たアレクサンドロスは彼を許した。紀元前323年には一旦除隊し、クラテロスに率いられて他の除隊兵とともにマケドニアへ帰ろうとしたが、到着する前にアレクサンドロスが死去した。紀元前322年の夏、古参兵の大部分がクラテロスとポリュペルコンのもとでギリシアへ向かう中、アンティゲネスはキリキアに残り、キュインダの要塞にある王の財宝を守る任務についた。このころ銀楯隊の指揮権を得たとみられ、テウタモスが副官を務めたという。
王の死後、バビロン会議で摂政となったペルディッカスが実権を握ったが、その基盤は脆く、各地の将軍が反旗を翻した。紀元前321年、ペルディッカスは彼らを討とうとエジプトに遠征したが、不手際のために味方の将兵にも見放されて殺された。アンティゲネスはペルディッカスに従っていたが、セレウコスやペイトンらとともにその暗殺に加わった。その後、新体制を定めるトリパラディソスの軍会で、スシアナ太守に任じられ、同時に銀楯隊の指揮官の一人になった。
その後、摂政ポリュペルコンの指示を受け、配下の兵とともにエウメネスの側につき、アンティゴノスとの戦いに臨んだ。同僚の銀楯隊指揮官テウタモスがエウメネスへの陰謀を企てたときには、説得してやめさせた。紀元前317年に、アンティゴノスの同盟者となっていたセレウコスとペイトンがエウメネスから軍の指揮権を奪うようそそのかしたときも、耳を貸さなかったという。エウメネスが、アレクサンドロスが夢に現れて王軍の指揮を自分に託したと語ったことで、アンティゲネスは味方につくことを承諾したともいわれる。しかしやがてエウメネスと指揮権を争い、再び企てられた陰謀にも加わった。プルタルコスはそれをエウメネスの有能さへの嫉妬のためだと述べている。
紀元前317年に始まった戦いで、アンティゲネスはエウメネス陣営に立ち、テウタモスとともに率いた銀楯隊はパライタケネの戦いと、紀元前316年のガビエネの戦いで大いに活躍した。パライタケネでは銀楯隊を率いてアンティゴノスの密集歩兵を破り、エウメネスを敗北から救ったとされる。ガビエネの戦いで銀楯隊は中央に置かれ、アンティゴノスの密集歩兵に向かって進む役目を負った。エウメネス軍はペウケスタスが騎兵とともに戦場を離れたために敗れたが、損害そのものは大きくなかったが、後方の輜重隊を奪われた。そこには銀楯隊の家族や財産が含まれていた。このため銀楯隊と、エウメネスに好感を持っていなかったアンティゲネスら諸将はアンティゴノスと取り引きし、エウメネスを引き渡して降伏した。しかしアンティゲネスはアンティゴノスに捕らえられ、穴に入れられて焼き殺されるという悲惨な最期を遂げた。
同じ年に亡くなった人物
- ペイトン (紀元前316年没)
- ミトレネス (紀元前 316年)
- オリュンピアス (紀元前316年没)
- カルディアのエウメネス (紀元前316年没)
- エウダモス (太守) (紀元前316年没)
同じ地域に関係する人物
該当人物はまだありません。