伝記
カール・シュピッツヴェークは、1808年2月5日に生まれたドイツの画家で、ビーダーマイヤー時代を代表する一人である。日本語版の資料は出生地をウンタープファッフェンホーフェンとするが、英語版は父の出身地がその村で、本人はミュンヘン生まれの3人兄弟の次男だったとする。母フランツィスカはミュンヘンの上流の市民層に属し、裕福な果物卸商の娘だった。父シモンは香辛料の取引で身を立てた教養ある商人で、政治活動でもミュンヘンで評判を得た。長男シモンは家業を継ぎ、カールは薬剤師に、末弟エドゥアルトは医師になることが、父によって決められていた。
厳格な父はカールが絵を描くのを禁じようとし、少年は苦しんだ。1819年に母が亡くなると、父は亡き妻の妹マリア・クレスツェンツと再婚した。この継母はカールを大切にして、父から彼をかばった。同年からミュンヘンの学校に通ったが、1824年に4年制のうちの2年を終えて退いた。絵の才能は早くから現れ、最初のデッサンは1823年のものとされるが、父に従い、1825年2月から市内の薬局で見習いを始めた。見習い最後の年の1828年12月1日に父が死去した。1829年にはシュトラウビングの薬局で働き、劇場関係者や画家と知り合った。薬局で働くあいだも、実在や想像上の病人の顔と町の人々を描き続け、狭い路地や出窓、小塔、噴水、石像のある絵のような町並みを好んだ。これらの題材は、のちの作品にたびたび現れる。この年、商人として働いていたエジプトのアレクサンドリアで長兄が亡くなっている。1830年にミュンヘン大学で薬学、植物学、化学を学び始め、1832年に優秀な成績で卒業して薬剤師の資格を得た。
ところが1833年に薬剤師の道を捨てた。病気ののちに温泉で療養していた折に、画業に専念することを決めたという。ちょうどそのころ遺産の取り分を受け取ったことが、決断を容易にした。画家としては独学で、まずフランドルの巨匠の作品の模写から始め、風刺雑誌に最初の作品を寄せた。1835年にミュンヘン芸術協会の会員となり、1839年にダルマチア、1850年にヴェネツィアを訪れ、1851年には風景画家エドゥアルト・シュライヒとパリとロンドンへ赴いて最初の万国博覧会を見た。帰路にはアントワープ、フランクフルト、ハイデルベルクにも立ち寄った。旅先では各地の画家の作品を研究して技法を磨いた。1844年からは週刊誌『フリーゲンデ・ブレッター』に加わり、数多くのユーモラスなデッサンを発表した。
作品は小さな画面に、同時代の市民の生活の中の、ビーダーマイヤーの小市民や風変わりな人々、ロマン的な出来事を描いた。人間の弱さは描くが、邪悪さや卑しさは描かず、粗野なものは彼には無縁だったという。画風は後期ロマン主義に属し、のちには次第にのびやかになって印象派に近づいた。最もよく知られた『貧乏詩人』は1839年の作で、ほかに『本の虫』(1850年)、『サボテン愛好家』などがある。生涯に1,500点以上の絵とデッサンを残したが、生前に売れたのは約400点で、新たな購買力を得た市民が愛好者となった。1885年9月23日、弟の死の直後に脳卒中でミュンヘンの住まいで亡くなっているのを発見され、旧南墓地に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- テオドール・バリュー (1885年没)
- ニコライ・ダニレフスキー (1885年没)
- ベンジャミン・ホチキス (1885年没)
- ナルシス・ムントリオル (1885年没)
- ウィリアム・ヘンリー・ヴァンダービルト (1885年没)
同じ地域に関係する人物
- ヴァルター・ブーフ (1949年没)
- パウル・ギースラー (1945年没)
- ゾフィー・アーデルハイト・イン・バイエルン (1957年没)
- クリスティーネ・カウフマン (2017年没)
- カール・ヴァレンティン (俳優) (1948年没)