伝記
ルイ・リエルは、1844年10月22日、ハドソン湾会社が名目上経営するルパートランド内のレッドリヴァー居留地(のちのマニトバ州ウィニペグ近郊)で、11人兄弟の長男として生まれたカナダの政治家で、プレーリー地区のメティ(先住民とフランス系やスコットランド系らの混血の人々)の指導者である。リエル家は地域で名の通ったフランス系メティの家柄で、父ルイ・リエル・シニアは、ハドソン湾会社の商業独占に挑んで投獄されたメティのギョーム・セイヤーを支援する組織の編成にかかわって名声を得た。この運動でセイヤーは釈放され、会社の独占体制は終わりを迎えた。母ジュリーの両親は、1812年にレッドリヴァーに白人の一族として初めて入植した人物とその妻である。一族は熱心なカトリック信仰と強い絆で知られた。
セント・ボニファスで修道士から教育を受け、13歳のときに、メティの有能な若者から聖職者を育てることに熱心な属司教タシェに才覚を見いだされた。1858年にタシェの斡旋でモントリオールのシュルピス会の神学校に入り、語学や科学、哲学で良い成績を収めたが、時折何の前触れもなく気まぐれを起こしたという。1864年に父の訃報に接すると聖職への関心を失い、1865年3月に退校した。その後はモントリオールの叔母の家で暮らし、弁護士ラフラムの事務所で事務員として働いた。若い女性と婚約したが、相手の家族がメティとの結びつきに反対して破談となり、失望もあって、法律の仕事にも喜びを見いだせず、1866年ごろにはケベックを去る決心をしていた。シカゴ、ミネソタ州セントポールなどで暮らしたのち、1868年7月にレッドリヴァーへ帰ったと考えられている。
帰郷したリエルは、英語を話すプロテスタント系移住者の流入で、宗教的・民族的な緊張が高まっていることに気づいた。1869年8月、連邦政府が派遣した測量隊が到着すると、土地の所有権が明示されていないメティの間に不安が広がった。リエルは測量調査を弾劾する演説を行い、10月にはメティ民族委員会の事務局長となった。副総督に指名されたマクドゥーガルの一行は11月2日に国境近くで引き返させられ、同日リエルらは無血でギャリー砦を占拠した。12月8日に臨時政府の樹立が宣言され、27日にリエルはその首長となった。オタワからの使者との話し合いの末、権利の一覧を携えて代表をオタワへ送ることになった。しかし、臨時政府に反対するカナダ党の企ては挫折して48人が逮捕され、そのうちのトーマス・スコットは、不服従などの罪で死刑を宣告され、減刑の懇願にもかかわらず3月4日に銃殺された。この処刑が後の論争を呼んだ。
オタワでの交渉は要求の大半を正式なものとして合意され、1870年5月12日のマニトバ法でマニトバ州の連邦加入が承認された。ただし臨時政府への大赦は得られず、ウルズリー大佐の遠征隊が接近すると、リエルは国外へ逃れた。彼は「マニトバの父」とも呼ばれる。亡命中にはカナダ下院議員に3度選ばれたが議席に就けず、約3年間は神に選ばれた預言者だという妄想など精神疾患の発作に苦しんだ。1881年にモンタナ州で結婚し、3人の子をもうけた。1884年にサスカチュワンへ戻ってメティの不満を代弁し、この抵抗が1885年のノースウェストの反乱に発展した。反乱は彼の逮捕と裁判、反逆罪による死刑判決で終わり、1885年11月16日に処刑された。フランス語圏の人々は同情し、この処刑はケベック州と英語圏との関係に消えない影響を与えた。
同じ年に亡くなった人物
- フリーミング・ジェンキン (1885年没)
- ジョージ・マクレラン (1885年没)
- アントニー・アシュリー=クーパー (第7代シャフツベリ伯爵) (1885年没)
- ウージェーヌ=エマニュエル・アモリー=デュヴァル (1885年没)
- 岩崎弥太郎 (1885年没)
同じ地域に関係する人物
- エミリー・マーフィ (1933年没)
- キラーイ・エデ (2009年没)
- カルビン・ブリッカー (1963年没)
- シルビア・フェドルック (2012年没)
- サンドラ・ピーターソン (2000年没)