伝記
シェモミスウ(ジェモミスウとも)は、ポラン族の第3代の公(ドゥクス)とされる人物で、ポーランド初のキリスト教徒の統治者ミエシュコ1世の父である。ピャスト家に属し、12世紀初めの年代記作者ガル・アノニムの『ポーランド人の君侯たちの事績』に、第2代の公レシェクの子として記されている。古い文献ではジェモミスウの名で現れるが、現在では、シェモミスウと呼ぶのが正しいとされる。
生まれた年と場所は分かっておらず、9世紀末から10世紀初めごろの生まれと推測されるほか、922年生まれとする説もある。その存在は、ガルの記述以外の史料では確かめられないため、実在を疑問視する見方もあるが、現在の研究者の多くは実在した人物と見ている。統治は930年ごろに始まったとされるが、950年ごろに始まり、期間は短かったとする研究者もいる。18世紀の歴史家ナルシェヴィチは、913年に始まった可能性まで想定したが、この説は今日の歴史家には受け入れられていない。
シェモミスウは、西ポラン族、ゴプワ族、マゾフシェ族の土地を統合したと考えられている。ただし、中央集権的な国家をつくるためのこの統合は、父レシェクがすでに始めていた可能性もあり、その国家はのちの966年にポーランド公国となる。ガル・アノニムによれば、シェモミスウは、これらの広い地域を息子ミエシュコ1世に残し、ミエシュコがそれを治世の中で拡大した。歴史家ヘンリク・ウォヴミャンスキは、シェモミスウが954年に、ドイツ人に対するウクラニ族の蜂起を支援したとの説を唱えている。
妻の名や人数は分かっていない。レンジャネ族の公ヴウォジスワフの娘が妻だったとする推測があるが、裏づけとなる史料はない。かつては妻の名をゴルカとする説があったが、1895年にオスヴァルト・バルツェルがこれを退けた。子には、ミエシュコとチチボルがいたことが知られている。そのほか、964年か965年に死んだ名の伝わらない息子がいたとされ、この人物はミエシュコの異母の兄だった可能性もある。バルツェルは娘アデライデも数えたが、これは架空の人物とされる。
没年は、950年から960年のあいだとされることが多く、960年や963年とする説もある。埋葬地は分かっていない。シェモミスウの記憶は、ブジェグのシロンスクのピャスト家の城の門に付けられたルネサンス期の浮き彫りにとどめられている。
同じ年に亡くなった人物
- ロターリオ2世 (イタリア王) (950年没)
- Chernorizets Hrabar (950年(推定))
- ハウエル・ザー (950年)
- カーヒル (アッバース朝カリフ) (950年没)
- ファーラービー (950年没)
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