HISTORICAL PERSON · 951年没

世宗 (遼)

遼の第3代皇帝。後晋滅亡後に軍に擁立されて即位し、南北の枢密院を統合して中央集権体制への転換を進めたが、遠征の帰途に暗殺された。

生涯
951年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

世宗は、契丹人の王朝である遼の第3代皇帝である。諱は兀欲(こつよく)、漢名は耶律阮とされ、919年1月29日に生まれ、951年10月7日に没した。後晋や北漢をめぐる戦乱の時代に、叔父の太宗の死後の混乱を抑えて即位し、在位わずか数年のうちに遼の政治体制を改めた人物である。

父は、後唐の李従珂に殺された東丹国王耶律突欲(のちに義宗と追諡された)で、祖父は遼の建国者である太祖耶律阿保機である。つまり世宗は太祖の嫡孫にあたる。父が不在のあいだ、叔父の太宗に育てられたとされる。会同9年(946年)、叔父の太宗に従って南へ進み、後晋を攻めた。ここで戦功を立て、大同元年(947年)2月に永康王に封じられた。後晋が滅びたのちも戦乱は収まらず、鎮圧にあたっていた太宗は同年4月、河北の欒城で亡くなった。

太宗の遠征に従軍していた兀欲は、軍の将軍たちの支持をすばやく得た。軍を率いて南京(現在の北京)を陥落させたのち、前線の将軍らに擁立されて、即位のため首都の上京へ向かった。一方、上京では太祖の后であった述律太后(応天皇太后)が、自分の三男で太宗の弟にあたる李胡を次の皇帝に立てようとして、兀欲の即位に反対し、孫である兀欲を阻むため軍を送った。しかし契丹の貴族たちは、李胡が帝位にふさわしくないと見て、今度は太后に従わなかった。両軍は潢河で対峙し、敗れた太后は兀欲の即位を承認した。朝廷が兀欲の主張を強く支持したため、契丹どうしの内戦は避けられたという。

国内の反対派を抑えて即位した世宗は、9月に大同元年を天禄元年に改元し、耶律屋質を用いて政府内の改革を進めた。太宗の代にあった南面官と北面官を合併して南北の枢密院を設け、南王と北王を廃し、のちにその機能を枢密院に合わせた。これらの改革によって遼は部族連合から中央集権体制へと転換し、以後の遼の発展の基礎が築かれた。世宗は気前のよさと武勇で知られた一方、祖母の述律太后と叔父の李胡は都から遠くへ送られ、まもなく世を去った。李胡は反乱のなかで、太后は老衰で死んだという。

しかし世宗は酒色に溺れて狩猟を好み、晩年は奸臣を用いたため、政治は乱れたとされる。それでも951年には自ら出陣し、南から進む中国側の勢力を退けることに成功した。この出陣は、即位から4年ほどのちのことであった。天禄5年(951年)、北漢を支援して後周を攻撃し、その帰途、祥古山(現在のフフホト)で、太祖の弟安端の子である察割の謀反にあった。察割は太宗の従兄弟にあたる。9月のある夜、察割は世宗と甄皇后を殺害した。33歳で、在位は3年ほどであった。この事件は、皇族のうちに帝位を奪おうとする動きがあったなかで起きたとされる。后妃のうち甄氏は905年生まれで、後唐の宮女であった人であり、951年に没した。懐節蕭皇后(諱は撒葛児とされる。述律平の姪にあたる)も同じ951年に亡くなっている。子には、早世した長男の耶律吼阿不、のちに景宗となる次男の耶律明扆(賢)、寧王に封じられた三男の耶律只没(983年没)がいる。景宗は948年9月1日に生まれ、982年10月13日に没した。長女の和古典は秦国公主として蕭啜里に、次女の観音は晋国公主として蕭夏剌に嫁いだ。三女の撒剌(萌古公主)は950年生まれで、蕭斡里の妻となった。さらに啜里と浦哥という二人の妃がいたが、いずれも971年に没し、子はなかった。

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