伝記
エイリーク1世(895年頃-954年)は、10世紀前半のノルウェー王である。在位は930年頃から934年頃とされる。ハーラル美髪王の息子で、晩年の父と共同統治を行い、その死後に後継者となったとされる。「血斧王」の異名で知られ、この異名は同時代に近いスカルド詩にも確認できるが、由来については兄弟との抗争に求める伝承と、ヴァイキング遠征での名声に求める伝承とがある。ノルウェーを追われたのち、ヨークを中心にノーサンブリアを支配したエイリーク王と同一人物とするのが一般的である。
ハーラルには多数の息子がいたと伝えられるが、確実とみられるのは10人ほどである。エイリークは王妃から生まれた唯一の息子とされ、そのため兄弟の中で特に高い地位を与えられたと考えられている。王のサガによれば、ハーラルは息子たちに王号と支配地域を与えながら、エイリークをその上位に置き、晩年には共同統治者とした。若いころの活動を伝えるのも後世のサガで、『ヘイムスクリングラ』によれば、12歳で父から5隻のロングシップを与えられて遠征に出た。最初の4年間はバルト海からデンマーク、フリースラント、ザクセン方面へ、次の4年間は西方のスコットランドやアイルランドなどへ向かったという。北方のフィンマルクへも遠征したとされ、その帰途に出会ったグンヒルドと結婚したとサガは語るが、呪術に通じた女性という描写をそのまま実像とみなすことはできないと歴史家は述べる。グンヒルドの出自も伝承によって異なり、アイスランド系のサガはハロガランドのオズルの娘とするが、『ヒストリア・ノルベジエ』はデンマーク王ゴーム老王の娘としており、近代以降の歴史家の多くは後者をとってきた。結婚して複数の息子をもうけたこと自体は確かとみられる。
ハーラルの晩年、エイリークと異母兄弟の関係は悪化した。『ヘイムスクリングラ』によれば、エイリークは父の命を受けて、呪術を行うとされた異母兄ラグンヴァルドを建物の中で焼き殺した。ヴェストフォルを治める異母兄ビョルンには税収の引き渡しを求めたが、断られたため、その夜に襲って殺したという。父の死後には、ヴィーケンを保持するオーラヴと、トロンデラーグを保持するシグルズがトンスベルグに軍を集めたが、エイリークはより大きな軍で急襲して二人を討ったとされる。単独の治世は2年ほどで、強権的な統治と抗争によって、エイリークと王妃グンヒルドへの反感が高まったとされる。
そのころ異母弟ホーコンは、イングランド王アゼルスタンの宮廷でキリスト教徒として育てられていた。父の死を知ってノルウェーへ戻ると、反エイリーク勢力の支持を得て各地のシングで王と認められた。エイリークは934年頃、妻や家族とともにノルウェーを去った。その後について『ヘイムスクリングラ』は、まずオークニー諸島で兵を集めてスコットランドやイングランド北部を襲い、やがてアゼルスタンからデーン人などの侵入からノーサンブリアを守ることを条件に同地を与えられ、洗礼を受けてヨークを拠点にしたと伝える。ただしこの経緯は同時代の英語の記録には確認されず、デンマークへ逃れたとする伝承もある。
ヨーク王エイリークとの同定には問題も指摘されている。『アングロサクソン年代記』はノーサンブリア王を「ハーラルの子エイリーク」と記すが、そのハーラルをノルウェー王と明記せず、ノルウェーを治めた経歴も記していない。島嶼部の史料でヨーク王エイリークが確かめられるのは947年以降である。エイリークは954年に没した。
同じ年に亡くなった人物
- ルイ4世 (西フランク王) (954年没)
- アブル=アイシュ・アフマド (954年没)
- アルベリーコ2世 (954年没)
- ヌーフ1世 (954年)
- 郭威 (954年没)
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- Cliff Allison (2005年没)
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- ドロシー・ワーズワース (1855年没)
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