HISTORICAL PERSON · 1886年没

アレクサンドル・オストロフスキー (劇作家)

ロシアの劇作家。商人社会や腐敗した貴族社会を描き、風刺喜劇『内輪のことだ、あとで勘定を』は上演禁止となったが、1859年の『雷雨』で大成功を収め、後に作曲家たちによって音楽化された。

生涯
1886年没
死亡地
ロシア連邦(コストロマ州 / Schelykovo)
出生地
ロシア連邦(モスクワ)
出典
世界地図
ロシア連邦(コストロマ州)

伝記

アレクサンドル・ニコラーエヴィチ・オストロフスキーは、1823年4月12日(ユリウス暦3月31日)にモスクワのザモスクヴォレチエ地区で生まれ、1886年6月14日(ユリウス暦6月2日)に没したロシアの劇作家である。47編の戯曲を書き、ロシアで最も上演回数の多い劇作家とされ、ロシアのリアリズム演劇を代表する存在である。父は神学校出身の法律家で、のちに高位の官吏となり、1839年に貴族の称号を得た。母リュボーフィ・サヴィナは聖職者の家の出であったが、1831年に亡くなった。きょうだいは姉のナタリヤと兄弟のミハイル、セルゲイで、姉とその友人たちと遊ぶなかで裁縫や編み物を覚えたという。乳母アヴドーチャ・クトゥゾワが聞かせた昔話は、のちの代表作『雪娘』の着想の一つになったと本人は語っている。父は1836年に男爵令嬢のエミリヤと再婚し、継母はヨーロッパ風の邸宅に改め、継子にも質の高い教育を受けさせた。

1840年にモスクワ大学法学部に入学し、1843年にかけて法を学んだ。学生時代にはペトロフスキー劇場にたびたび通い、詩や戯曲の習作も書いたが、1843年5月にローマ法の試験に落第して大学を去った。裁判所の書記となり、父の勧めもあって、1845年にモスクワ商業裁判所に移った。この裁判所は賄賂や汚職の事件を多く扱い、のちにオストロフスキーは、この不愉快な経験がなければ『収入ある地位』のような作品は生まれなかっただろうと述べている。1846年ころから戯曲を書き始め、1847年にはモスクワの商人社会に取材した場面が、新聞に掲載された。1850年に4幕の風刺喜劇『内輪のことだ、あとで勘定を』を雑誌に発表した。愚かな商人を描いたこの作品は、上演されるとたちまち人気を博したが、公序良俗を乱すとして上演を禁じられ、作者は一時期、監視下に置かれた。数年後に上演が許されている。1851年に、演劇に専念することを決断した。

1853年の『貧乏は罪にあらず』は、翌年マールイ劇場で初演され、名優プロフ・サドフスキーが演じた。『同時代人』誌の発行人ネクラーソフと知り合い、ツルゲーネフ、ゴンチャロフ、トルストイらと親交を深めた。ヴォルガ河畔を周遊し、ニジニ・ノヴゴロドなどを訪れた。1856年に賄賂と汚職を描く5幕の風刺戯曲『収入ある地位』を発表すると、トルストイやチェルヌイシェフスキーが絶賛したが、上演は官僚を侮辱したとして直前に中止された。ヴォルガ川周航から着想を得た『雷雨』は1859年に発表され、マールイ劇場の初演で拍手喝采を受け、最初の大作となった。ヒロインのエカテリーナが不倫に導かれて自らを見失い、ヴォルガ川に身を投じる物語で、ヤナーチェクなど作曲家たちによって音楽化された。批評家ドブロリューボフが彼のリアリズム演劇を称賛し、二人は親睦を深めた。1862年には西ヨーロッパを訪れ、ロンドンでゲルツェンと会っている。

その後も『どんな賢人にもぬかりはある』(1868年)、『熱き心』(1869年)、『森林』(1871年)、『狼と羊』(1875年)を発表した。1873年にロシア民話を素材にした『雪娘』を発表し、チャイコフスキーが劇音楽を書き、リムスキー=コルサコフが歌劇にした。1874年にはオペラ・演劇関係の団体を創設し、後進の戯曲の出版や上演を経済的に支援して、各地の劇場の建設にもつながった。1884年にはアレクサンドル3世と会談した。晩年は宮廷から年金を受け、シェイクスピアに没頭し、1886年にコストロマ近郊のシチェルイコヴォで狭心症のため没した。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物