HISTORICAL PERSON · 960年没

チャスラヴ・クロニミロヴィチ

セルビア公。ブルガリア帝国の支配下から脱してセルビア公国を再興し版図を拡大したが、マジャル人の奇襲で一族もろとも殺された。

生涯
960年没
死亡地
スロベニア共和国(ラドヴリツァ / サヴァ川)
出生地
ブルガリア共和国(プレスラフ)
出典
世界地図
スロベニア共和国(ラドヴリツァ)

伝記

チャスラヴ・クロニミロヴィチは、890年代に生まれ、960年に没したセルビアの君主である。統治は927年ごろから960年ごろまでとされるが、終わりの時期については諸説があり、943年か944年ごろまでとする見方もある。スラヴ人の諸部族を統合して公国を大きく広げ、その版図はアドリア海沿岸からサヴァ川、モラヴァ川の峡谷にまで及んだ。9世紀の君主たちと並んで、中世セルビアの建国者と見なされている。

チャスラヴは、7世紀前半からセルビアを支配してきた最初の王朝の最後の君主として知られる。祖父は851年から880年にかけて共同公であったストロイミル、父はクロニミルである。母は第一次ブルガリア帝国のボリス1世が自らクロニミルの妻に選んだブルガール人の貴族女性であった。公国は3人の兄弟による寡頭制となったが、880年代に長男ムティミルが公位を独占し、弟たちを追放した。ストロイミルの子クロニミルはボリス1世の宮廷に逃れた。896年、クロニミルはボリス1世の後押しを受けてセルビアに戻り、重要な要塞を占領したものの、戦いに敗れて殺された。チャスラヴは896年以前にブルガリアの首都で生まれ、シメオン1世の宮廷で育った。

924年、チャスラヴはブルガリア軍とともにセルビアへ送り込まれた。ブルガリア軍は豊かな地域を荒らし、当時の公ザハリヤをクロアチアへ追いやった。シメオン1世は新しい公に忠誠を誓わせるという名目でセルビア人領主たちを集めたが、チャスラヴを公位につける代わりに領主たちを全員捕らえ、セルビアをブルガリア帝国に併合してしまった。これで帝国の版図は西方へ大きく広がり、クロアチアなど西部バルカンの国々と国境を接した。

ブルガリアの支配は927年まで続いたが、セルビア人はこれを快く思わず、多くがクロアチアや東ローマ帝国へ亡命した。927年にシメオン1世が没すると、チャスラヴは4人の友人とともにセルビアへ脱出した。セルビア人の支持を受けて公国を再興すると、すぐに多くの亡命者が戻ってきた。チャスラヴは直ちに東ローマ皇帝ロマノス1世レカペノスに臣従し、金銭的・外交的な支援を引き出した。治世を通じて東ローマ帝国との緊密な関係を保ったため、セルビアには教会を中心にその影響が深く及んだ。正教についてはブルガリア帝国からも影響を受けており、後の東西教会分裂時にセルビアがカトリック圏でなく正教圏に属する決定的な画期になったとされる。チャスラヴはさらに公国の拡大に乗り出し、トラヴニアやボスニアの一部を併合し、歴史上から姿を消していたザフムリェのミハイロの支配領域も併呑した。

最期はマジャル人との戦いで訪れた。コンスタンティノス7世の『帝国統治論』によれば、キサ率いるマジャル人がボスニアに侵攻した際、チャスラヴは急ぎ迎撃してドリナ川河畔で戦い、大勝した。キサはチャスラヴ配下のヴォイヴォダに殺され、その功を賞して、チャスラヴは娘をそのヴォイヴォダであるティホミルに嫁がせた。しかしキサの未亡人は復讐の軍勢を率いて戻り、スルミアで夜襲をかけた。チャスラヴは親族の男性全員とともに捕らえられ、手を縛られてサヴァ川に投げ込まれて死んだという。この出来事は『帝国統治論』の成立後に起きたため記録がなく、960年かそれより少し後と考えられている。没後、娘婿ティホミルが一帯を治めたように、各地の貴族が自立して割拠した。971年から976年の間には、東ローマ皇帝のもとでラシュカに行政区画が置かれた。1903年には、セルビアの作家が『大チャスラヴ』を著している。

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