伝記
マケドニアのヘラクレスは、紀元前327年ごろに生まれ、紀元前309年に没した人物である。フリギアのサトラップ、アルタバゾスの娘バルシネが産んだ、アレクサンドロス3世(大王)の庶子とされてきた。母バルシネは、ロドス島出身の傭兵の兄弟メントルとメムノンの二人に嫁いだのち、未亡人となっていた女性である。アレクサンドロスにとっては最初の庶子、つまり長男にあたる。名は、アレクサンドロスの属するアルゲアス家が祖と仰ぐ神話の英雄ヘラクレスにちなんでつけられた。誕生は、父の遠征がインドに及んでいたころとする説もある。
ただし、本当にアレクサンドロスの子だったかどうかは確定できない。古代の著述家のうち、プルタルコスとユスティヌスはバルシネとヘラクレスに触れているが、アッリアノスの『アナバシス』はどちらにも言及しない。プルタルコスは、アレクサンドロスがバルシネを愛人にしたのは、パルメニオンが彼女を勧めたためだと語るが、この理由は疑わしいとされる。アレクサンドロスとパルメニオンの間には多くの意見の食い違いがあり、アレクサンドロスが彼の判断を軽んじていたようにも見えるからである。さらに、もしヘラクレスが実子であったなら、父の死の時点で唯一の存命の息子であるはずの彼が、なぜ後継争いにすぐ加えられず、異母兄弟にあたるピリッポス・アッリダイオスが選ばれたのかという疑問も残る。小説家のメアリー・ルノーは、バルシネとの恋は後からヘラクレスの出自を正当化するために作られたものと結論づけた。
誕生の時点では、ヘラクレスを王位の候補と考える理由はなかった。父はこのとき29歳で、バクトリアの王女ロクサネと結婚したばかりであり、正統の子が生まれるのは疑いないと思われていた。実際、アレクサンドロスが紀元前323年に32歳で世を去ると、ほどなくロクサネは嫡子アレクサンドロス4世を産んだ。ヘラクレスと母は、誕生後まもなく宮廷を離れ、将軍たちが帝国各地の統治を争った時期にも関わらなかった。大王の死に際しては、当時バルシネの娘婿だったネアルコスがヘラクレスの相続を主張したが、受け入れられなかった。歴史家ボスワースは、彼が二度ほどわずかな間だけ帝国をめぐる争いの駒の役を演じたが、父の後継者と見なされたことは一度もなかったと評している。
ヘラクレスはペルガモンで目立たず暮らしていたが、紀元前310年か309年にカッサンドロスが異母弟にあたるアレクサンドロス4世を殺害したことで、事態が動いた。ヘラクレスは大王の存命する唯一の息子として、担ぎ出されることになったのである。かつてマケドニアの摂政の地位にありながらカッサンドロスに取って代わられ、六年ほど表舞台から消えていたポリュペルコンが、ヘラクレスを大王の真の後継者として擁立しはじめたのである。ポリュペルコンは騎兵1000、歩兵2万の軍を集めたと伝えられ、カッサンドロスと対峙した。
しかしカッサンドロスは戦わず、交渉に出た。ポリュペルコンを自軍の将軍に迎え、ペロポネソスの総督に任じるなど、さまざまな報酬を示して説得し、ヘラクレスを殺すよう仕向けたという。ポリュペルコンはこれに応じてヘラクレスを殺害した。母のバルシネも一緒に殺されたとされ、時期は紀元前309年の末ごろである。殺されたときヘラクレスはわずか17歳だった。その後ポリュペルコンはふたたび歴史の表から退いた。
同じ年に亡くなった人物
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