伝記
ルドルフ・ユリウス・エマヌエル・クラウジウスは、1822年1月2日、プロイセン王国領ポンメルンのケスリーン(現在のポーランド領コシャリン)で生まれたドイツの理論物理学者である。熱力学の第一法則と第二法則の定式化やエントロピーの概念の導入によって、熱力学の重要な基礎を築いた。父は牧師で小学校の校長でもあり、その学校で初等教育を受け、のちにシュテッティンのギムナジウムで学んだ。1840年にベルリン大学に入学した。歴史学者ランケの影響からか歴史学にも興味を持ったが、最終的に選んだのは物理学だった。経済上の理由から在学中に教員免許を取り、1850年までベルリンのギムナジウムで物理を教えた。
1847年に最初の論文を発表し、1848年にはハレ大学から博士号を与えられた。この時期の論文は光学に関するものだった。1850年に熱力学に関する初の論文「熱の動力、およびそこから熱理論のために演繹しうる諸法則について」を発表した。同年、ベルリン王立砲工学校の教授、ベルリン大学私講師となった。1851年にはジョン・ティンダルと知り合い、生涯の友人となった。ティンダルは論文を英訳し、最初の子の名付け親にもなった。1855年にチューリヒに招かれてチューリヒ工科大学の教授となり、1857年からはチューリヒ大学教授も兼ねた。同年に結婚し、のちに六人の子をもうけた。
当時、カルノーの熱量保存の理論が、1840年代後半にウィリアム・トムソンによって広まっていた。一方、熱が仕事に変わり、仕事も熱に変わるというジュールの測定結果も認められるようになったが、二つの理論は矛盾するように思われた。クラウジウスはジュールの理論を受け入れ、熱と仕事は互いに変換可能だと考えたが、カルノーの理論を完全に捨てることもしなかった。1850年の論文でカルノーサイクルでの熱の出入りを計算し、熱は物質の持つエネルギーのほかに、外部になされる仕事の分も加えねばならないと結論した。これはエネルギー保存則の初の定式化であり、熱力学第一法則と呼ばれる。
さらに、熱は常に高温物体から低温物体へと移動するという原理を立て、熱力学第二法則と呼んだ。1854年の論文「力学的熱理論の第二基本定理の1つの改良型について」でこれを確立した。1865年にチューリヒ哲学会で発表した論文では、不可逆過程も考慮してクラウジウスの不等式を導き、初めて「エントロピー」という語を使った。dQ/Tという量を積分するとカルノーサイクルを1周した際に総和がゼロになることに気づき、これを新しい量Sの変化dSとして表した。この時点では原子の実在を前提とせず、熱機関の可逆性の指標だった。この考えは多くの科学者に反論されたが、マクスウェルに強く支持された。
1867年にヴュルツブルク大学教授、1869年にボン大学教授となり、1868年にはロンドン王立協会の外国人会員に選ばれた。1870年の普仏戦争では、ボン大学の学生義勇団の指導者になったが、訓練中に膝を怪我し、その傷は長く残った。1875年には妻アーデルハイトが六人目の子の出産中に亡くなり、以後は子供たちを育てながら研究を続けた。1879年に王立協会のコプリ・メダルを授与され、1884年から1885年にボン大学の学長を務めた。1886年に再婚して一子をもうけたが、1888年に貧血症にかかり、同年8月24日に亡くなった。気体運動論では内部自由度や平均自由行程の概念を導入し、1885年には石炭の枯渇に備え、太陽によるエネルギーに移行すべきだと講演で説いた。
同じ年に亡くなった人物
- アンナ・キングスフォード (1888年没)
- ヨシフ・パンチッチ (1888年没)
- James Robertson (1888年没)
- ヤアアン・ローズ (1888年没)
- シャルル=ヴァランタン・アルカン (1888年没)
同じ地域に関係する人物
- ハインリヒ3世 (リンブルフ公) (1221年没)
- オットー・ヴェディゲン (1915年没)
- ヴィルヘルム5世 (ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公) (1592年没)
- フリードリヒ1世 (1131年没)
- アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲル (1845年没)