伝記
エドワード・リアは、1812年5月12日にロンドン郊外のホロウェイで生まれたイギリスの画家であり、ナンセンス詩人である。株式仲買人の父のもと、21人きょうだいの20番目の子として生まれた。父は経済の混乱のなかで破産し、一家の暮らしは苦しくなった。4歳のとき、限られた家計のため、リアは姉とともに実家を出て暮らすことになった。21歳年上の姉アンに育てられ、アンは彼が50歳近くになってその死を迎えるまで、母のように慈しみ続けた。生涯、健康の問題に悩み、6歳のころから頻繁にてんかんの発作に見舞われた。最初の発作は、父と出かけた市の場で起こり、本人は驚きと恥ずかしさを感じ、その後も生涯にわたって罪悪感と羞恥を抱いたという。成人後の日記によれば、発作の前触れを察して、人前から身を隠せるようにしていた。7歳ごろから抑うつの兆しを示し、ひどい憂鬱の時期を「モービッズ」と呼んだ。
16歳のころにはすでに糊口をしのぐために絵を描いており、やがて動物学協会に雇われる本格的な鳥類画家に成長した。19歳のときにはロンドン動物園の依頼で、写生画をまとめた『オウム図譜』を出版した。標本の皮ではなく、生きた鳥を写生した最初の主要な鳥類画家であり、その鳥類図は、ジョン・ジェームズ・オーデュボンと比べられた。この図譜は鳥類研究者であったダービー伯爵家のスタンリー卿の目に留まり、リアは1832年から1836年まで、ノーズリーにあったダービー伯爵邸の私設動物園で動物画を描いた。滞在中は、当主の12代ダービー伯爵やその孫たちを、滑稽な絵とおかしな詩で楽しませた。短期間、ヴィクトリア女王に絵の手ほどきをしたこともあるという。
視力が衰えて細密な図版が難しくなると、風景画と旅に転じた。1837年以後は精神的に不調となり、地中海地方やインドなど、国外を放浪した。1842年にはイタリア半島の旅に出て、ローマやアブルッツォ、カラブリアなどを巡り、生活や民間の伝統、古代遺跡の美しさを素描とともに書き留めた。1848年から1849年にはアルバニアやエジプト、ギリシャを訪れ、1873年から1875年にはインドを旅した。旅先では力強い陽光と鮮やかな色の対比を特徴とする水彩の下絵を大量に描き、のちにアトリエで油彩や水彩、版画に仕上げた。1878年から1883年の夏はモンテ・ジェネローゾで過ごした。テニスンの詩に挿絵を付けるのが生涯の願いで、晩年にはわずかな挿絵を載せた一冊が出版された。
1846年に、絵や詩をまとめた『ナンセンスの絵本』を出版し、以後も画家として活動するかたわら、ナンセンス詩画集を執筆した。5行の脚韻詩リメリックに滑稽な挿絵をつけた作品は存命中から広く読まれ、リメリックの詩形が一般に知られるようになった。ルイス・キャロルなどにも影響を与え、のちにジョージ・オーウェルやオルダス・ハクスリーらが彼の詩を高く評価した。「ランシブル」という意味を持たない造語を作ったことでも知られる。大変な愛猫家で、イタリア滞在中の晩年には愛猫フォスを風刺画のシリーズに描いた。フォスが死ぬと本格的な葬式を行い、墓石まで建てたといい、そのわずか2か月後の1888年1月29日、リア自身も亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- ヘレーネ・フォン・ナッサウ (1888年没)
- クリストファー・メミンジャー (1888年没)
- ジャン=マリー・ギュイヨー (1888年没)
- ローレンス・オリファント (1888年没)
- アニー・チャップマン (1888年没)
同じ地域に関係する人物
- Giovanni D'Anzi (1974年没)
- エドモンド・デ・アミーチス (1908年没)
- メフメト6世 (1926年没)
- パーシー・ビッシュ・シェリー (1822年没)
- Pierino Gabetti (1971年没)