伝記
ニコライ・ガヴリーロヴィチ・チェルヌイシェフスキーは、1828年7月24日にロシア帝国のサラトフで、聖職者の家庭に生まれた革命的民主主義者、哲学者、経済学者である。ナロードニキ運動の創設者の一人で、マルクスとレーニンから高く評価された。少年のころから語学の才能に恵まれ、神学校を中退した後、サンクトペテルブルク大学の歴史・哲学部に入学した。在学中に、ロシアの専制政治や農奴制への批判と、1848年のフランス二月革命を契機に広がった諸国民の春に影響を受けて、唯物論、無神論、社会主義に傾いていった。1850年に大学を卒業し、帰郷して中等学校の教師となったが、1853年に再び首都へ出て、評論と執筆活動に入った。
1855年のクリミア戦争のさなかに皇帝ニコライ1世が死去すると、翌1856年から雑誌『同時代人』の編集者兼執筆者となり、アレクサンドル2世のもとで醸成された改革の時代に、ドブロリューボフとともに活躍した。農奴解放をめぐって、彼は農奴に無償で土地を与えて本当の意味での解放を目指し、将来の社会主義建設のために農村共同体(ミール)を維持するよう主張した。地主や貴族の利害を守り、改革を不徹底なものにしたとして、インテリゲンチアの先頭に立ち、皇帝の政府と、政府に妥協した自由主義者を激しく攻撃した。1861年には、不徹底な農奴解放令に反対して学生運動を支援し、民衆蜂起をめざす全ロシア農民革命の秘密結社を作ろうとしたため、当局に忌避され、翌1862年6月に逮捕された。
1864年に懲役7年とシベリア終身流刑の判決を受け、以後約20年を、流刑地ヴィリュイスクで過ごした。厳しい流刑生活で健康が蝕まれ、かつての激しい活動家とは別人のようになったと伝えられる。1889年に病気のため帰郷を許されたが、同年10月29日、脳溢血のため61歳で死去した。
思想の面では、空想的社会主義の影響を強く受け、ドストエフスキーも参加したペトラシェフスキー・サークルに加わっていた。フォイエルバッハから大きな影響を受け、独自に戦闘的唯物論を展開した。ヘーゲルの美学を批判する『現実に対する芸術の美学的関係』(1855年)や『哲学の人間学的原理』(1860年)を著した。文芸評論では、ベリンスキーのリアリズムの伝統を発展させ、『ロシア文学のゴーゴリ時代概観』を発表した。経済学では、ミルの『経済学原理』への注解や『農村共同体論』を書いた。クリミア戦争後のロシアが初期資本主義の段階に入ったと見抜き、西欧が経験した労働者の悲惨な収奪をロシアで避けるため、ミールに着目した。単に資本主義を批判したのではなく、産業革命と結びついた生産力の拡大は積極的に評価した。
1863年に獄中で著した長編小説『何をなすべきか』は、出版後すぐに発禁となったが、ナロードニキの革命理論に基づくユートピア小説として、当時のロシアの青年に大きな影響を与えた。革命家に厳しい自己陶冶を説き、協同社会の建設や、男女の不平等と女性の自立の問題を取り上げ、後世のロシアや東欧の女性解放運動にも巨大な影響を及ぼした。レーニンは同名の本を著すほど愛読した。ナボコフは長編『賜物』で、彼とその家族を戯画的に描いている。
同じ年に亡くなった人物
- フランシスクス・ドンデルス (1889年没)
- ベルンハルト・フェルスター (1889年没)
- ミハイル・サルトィコフ=シチェドリン (1889年没)
- ミケーレ・アマーリ (1889年没)
- エミール・オージエ (1889年没)
同じ地域に関係する人物
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- イワン・ペトローヴィチ・ラリオーノフ (1889年没)
- ニコライ・ヴァヴィロフ (1943年没)
- パーヴェル・ヤブロチコフ (1894年没)
- ヘルヴァルト・ヴァルデン (1941年没)