伝記
マリア・ミッチェルは、1818年8月1日にマサチューセッツ州のナンタケット島で生まれ、1889年6月28日に没したアメリカ合衆国の女性天文学者である。日本ではマリア・ミッチェルの名で通っているが、実際の発音に近い表記は「マライア・ミッチェル」である。10人きょうだいの3番目で、父ウィリアムは学校の教師でアマチュア天文家、母リディアは図書館で働いていた。両親はクエーカー教徒で、教育と堅実な労働を重んじ、当時としてはめずらしく、男子と同じ教育を娘にも与えようとした。父は子供たちに自然や天文学を教え、マリアにはクロノメーターや六分儀、屈折望遠鏡などの扱い方を教えた。島は捕鯨の港で、夫が海に出ているあいだ、妻たちが何か月も、時には何年も家を守ったため、女性が比較的自立し、対等に近い空気があった。12歳半のとき、1831年の日食の正確な時刻を、父を手伝って計算した。
のちに父が校長を務めた学校や、ユニテリアンの牧師サイラス・ピアスの女学校で学び、ピアスの助手を務めたのち、1835年に自分の学校を開いた。そこでは実験的な教授法を試み、非白人の子供も通わせたが、地元の公立学校がまだ人種で分けられていた時代には論議を呼ぶ決断だった。1836年にはナンタケット・アセニアム図書館の最初の司書となり、約20年にわたってその職にあった。開館時間が限られていたため、父を手伝って、沿岸測量局のための天体観測や地理的な計算を行い、自分の勉強も続けられた。父娘は、銀行の屋根に設けた小さな観測所で、測量局から提供された望遠鏡を用いて星雲や二重星を探し、星の高度や月による掩蔽から緯度と経度を計算した。
1847年10月1日の夜、ミッチェルは望遠鏡で未知の天体を見つけ、彗星と見て、ミッチェル彗星(C/1847 T1)と呼ばれることになる彗星を発見した。当時、デンマーク王は彗星の発見者にメダルを贈る制度を設けていて、彗星の発見は世間の注目を集めていた。ミッチェルの2日後にイタリアのフランチェスコ・デ・ヴィコが同じ彗星を発見して先に報告していたが、アメリカの天文関係者は、最初の発見者をミッチェルとするよう運動した。1848年、新国王から改めてメダルを贈られ、カロライン・ハーシェル以来の女性の彗星発見者として国際的な名声を得た。女性として初めて1848年にアメリカ芸術科学アカデミーの会員に選ばれ、1850年にはアメリカ科学振興協会の会員となった。
アメリカ航海暦局で金星の天体表を計算し、ナサニエル・ホーソーンとその家族とヨーロッパを旅した。1865年にヴァッサー大学の天文学教授に迎えられ、同大学の天文台長を務めた。評価や経験にもかかわらず、報酬は若い男性の教授より低く、昇給を交渉しなければならなかった。1842年にクエーカー教徒からユニテリアンになり、奴隷制に抗議して綿の衣類をつけるのをやめた。エリザベス・ケイディ・スタントンらと親しくなり、女性の地位向上を目ざす協会の設立者の一人となった。マリア・ミッチェル天文台は彼女の功績を称えて命名された。ナショナル・ウィミンズ・ホール・オブ・フェイムにも選ばれ、第二次大戦中の海軍の船舶や、月のクレーターにもその名がつけられた。
同じ年に亡くなった人物
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