伝記
オレグ・スヴャトスラヴィチは、ドレヴリャーネ(ドレヴリャン)人の公で、977年に没した。キエフ大公スヴャトスラフ1世の次男で、リューリク家の一員である。生年は分かっていないが、957年より前だった可能性が高いとされる。母の名は伝わっておらず、歴史家のアレクセーエフは、スヴャトスラフに従属していた部族か都市の公女だったのではないかと推測した。968年のキエフ包囲の際の記述に母が出てこないことから、研究者はこのときすでに亡くなっていたと考えている。スヴャトスラフがドナウ川方面で遠征しているあいだ、子どもたちはキエフでオリガ妃のもとに残り、その養育を受けた。歴史家たちは、オリガが幼い公たちにキリスト教の初歩を教えたとみている。彼らの名が年代記に初めて現れるのは、968年のペチェネグ人によるキエフ包囲に関する記述である。
スヴャトスラフは当初、領地を長男ヤロポルクと次男オレグに分けるつもりだったとされる。ヤロポルクがキエフを受け、オレグは970年にドレヴリャーネ人の地を与えられた。これは独立の記憶を保つ地元の貴族にとって満足のいくものだった。オレグが拠点とした都市ははっきりしないが、ヴルチイ(今日のオヴルチ)だったとする説がある。そのころノヴゴロドの使節がスヴャトスラフのもとを訪れ、3人の息子のうちの一人を公にしてほしいと求めた。ヤロポルクとオレグはこれを断り、スヴャトスラフは三男ウラジーミルをノヴゴロドに送って治めさせた。
972年にスヴャトスラフが没すると、ヤロポルクが後を継いだ。オレグおよびウラジーミルとの関係は、年代記に詳しく書かれていない。二人がヤロポルクの上位の権威を認めたとみる歴史家もいれば、対等の支配者だったとみる歴史家もいる。ただ、父の死から間もなく兄弟の間に争いが生じた。時期は973年末とも975年ともいわれる。ヤロポルクの重臣で軍の指揮官スヴェネルドの子リュートが、狩りの途中でオレグの領地に入り込んだ。そこはオレグが自分のものとみなしていたドレヴリャーネ人の土地であった。誰が自分の土地で狩りをしているかを知ったオレグは、リュートを殺させた。一部の歴史家は、イーゴリ公の時代にスヴェネルドがドレヴリャーネ人から貢納を取っていたことから、リュートの行動は意図的な挑発だったと考える。
息子の死を知ったスヴェネルドは、ヤロポルクに弟との戦いを促した。ヤロポルクはしばらく動かなかったが、リュートの死から2年後に軍を集めてドレヴリャーネ人の地へ攻め入った。オレグは軍勢を率いてヴルチイ近くで迎え撃ったが敗れ、生き残った兵は城門へ退いた。城門へ続く橋の上で人々が押し合い、落ちる者が出て、オレグ自身も堀に落ちた。町はヤロポルクに降伏し、ヤロポルクはすぐに弟を捜し、堀の中でその遺体を見つけた。ヤロポルクは後悔したともいわれ、遺体は城塞のふもとに葬られた。ウラジーミルはオレグの死の知らせを聞いてノヴゴロドから逃れた。ヤロポルクはノヴゴロドへ部下を送り、キエフ・ルーシの唯一の支配者となった。こうして兄弟の争いは、ヤロポルクの勝利で幕を閉じたのである。
1044年、賢公ヤロスラフ1世はオレグの遺骨を掘り起こさせ、洗礼を授けたうえで、十分の一税教会に改めて葬った。また、チェコの伝承には、ジェロチーン家(ツィエロティン家)がこのオレグの子孫だとするものがあるが、これは伝説とされる。
同じ年に亡くなった人物
- アショト3世 (977年)
- ドウブラフカ・プシェミスロヴナ (977年)
- アムライブ (977年没)
- ボリス2世 (977年(推定))
- マンスール1世 (977年(推定))
同じ地域に関係する人物
- ヤレーマ・ヴィシニョヴィエツキ (1651年没)
- ウラジーミル4世 (1239年没)
- ヘンリク・ジェヴスキ (1866年没)
- アナトーリ・オノプリエンコ (2013年没)
- イーゴリ1世 (945年没)