伝記
フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホは、1853年3月30日にオランダ南部のズンデルトで生まれ、1890年7月29日に没したポスト印象派の画家である。父テオドルス(ドルス)は改革派の牧師で、母はアンナ・コルネリア・カルベントゥスであった。フィンセントはその長男で、ちょうど1年前に死産した男児と同じ名を与えられた。小さいころから癇癪持ちで、きょうだいの中でも扱いにくい子と見られていたが、ヒースの広がる低湿地を歩き回り、花や昆虫や鳥を観察して一日を過ごした。11歳の1864年に描いた素描が、絵の才能をうかがわせる。ティルブルフの国立高等市民学校に進んだが、1868年にあと1年を残して家に帰ってしまい、理由は分かっていない。本人はのちに「僕の若い時代は、陰鬱で冷たく不毛だった」と書いている。
1869年7月、伯父セントの助力で画商グーピル商会のハーグ支店の店員となった。1872年夏に弟テオがハーグを訪れ、この直後から二人の間で書簡のやり取りが始まった。1873年にロンドン支店に転勤、1875年にはパリ本店に移った。金儲けだけを追求する商会の仕事に反感を募らせ、聖書や『キリストに倣いて』に読みふけった。1876年に成績不振で解雇されると、イギリスで教師として働き、ドルトレヒトの書店でも働くうちに聖職者を志した。1877年にアムステルダムで神学部の受験勉強を始めたが挫折し、1878年末からベルギーの炭坑地帯ボリナージュで伝道見習いとして活動したものの、資格を失った。1880年、テオの勧めもあって画家を目指すことを決意し、エッテン、ハーグ、ニューネン、アントウェルペンと移り、テオの援助を受けながら制作を続けた。オランダ時代の絵は貧しい農民の生活を描いて色調が暗く、ニューネンで描いた『ジャガイモを食べる人々』が主要作である。
1886年2月、テオの住まいに押しかけるようにしてパリに移り、印象派や新印象派に出会って、明るい色調の絵を描くようになった。ジャポニスムのブームの中で浮世絵にも関心を持ち、収集や模写を行った。『タンギー爺さん』などがこの時期の作品である。1888年2月に南フランスのアルルへ移り、『ひまわり』や『夜のカフェテラス』などの名作を次々に生み出した。画家の協同体を築くことを夢見ており、テオの働きかけで10月末からポール・ゴーギャンが訪れて共同生活が始まったが、二人の関係は行き詰まり、12月末の「耳切り事件」で破綻した。以後、発作に苦しみ、アルルの病院に入退院を繰り返した。1889年5月からはサン=レミの療養所に自ら望んで入所し、発作の合間にも『星月夜』など多くの作品を描いた。1890年5月、パリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに移り、医師で画家のポール・ガシェと交流し、ここで50点の素描と74点の油彩画を描いた。
7月27日に麦畑の中で銃で自らを撃ち、2日後に亡くなった。弟テオも半年後に亡くなった。生前に売れた絵は『赤い葡萄畑』の1枚のみだったといわれるが、異説もあり、晩年には評価する評論も現れていた。約10年の活動で、油絵約860点、水彩画約150点、素描約1030点などを残した。テオの妻ヨーは、アムステルダムで480点を超える絵の回顧展を開き、兄弟の手紙を整理して書簡集として出版し、画家の評価を高めた。
同じ年に亡くなった人物
- ウィリアム・ガル (1890年没)
- ユベール・レオナール (1890年没)
- ジョゼフ=ニコラ・ロベール=フルーリー (1890年没)
- ヘレーネ・イン・バイエルン (1890年没)
- ルドルフ・カンプハウゼン (1890年没)
同じ地域に関係する人物
- ジャン・ドレヴィル (1997年没)
- メラニー・ボニス (1937年没)
- ルイーゼ・ホランディーネ・フォン・デア・プファルツ (1709年没)
- アントワーヌ・デュアメル (2014年没)
- ボンヌ・ド・リュクサンブール (1349年没)