伝記
源順(みなもと の したごう)は、平安時代中期の貴族・歌人・学者である。嵯峨源氏の出で、大納言・源定の曾孫にあたり、左馬允・源挙の次男として生まれた。最終的な官位は従五位上・能登守。梨壺の五人の一人であり、三十六歌仙の一人にも数えられる。生年は911年とされる。
嵯峨天皇の子の源定を祖とし、その子の源至は左京大夫に進んだ。ところが至の子である挙は、正七位下相当にしか進めず、延長8年(930年)に急死している。順が数え年で20歳のときのことである。順は若い頃から奨学院で学問に励み、博学で知られた。承平年間(930年代半ば)、20歳代のうちに、日本最初の分類体の辞典とされる『和名類聚抄』を編纂した。934年に勤子内親王の命によって編まれたともいわれる。事物の項目を見出しとし、出典や意義、和訓などの注釈を付けた漢文体の書で、24の大分類と128の小分類に項目を整理している。日本の辞書史上で最重要の文献の一つとされる。和漢の多くの書物を引用し、『楊氏漢語抄』や『弁色立成』といった書名も見えることから、失われた書物の手がかりを含む貴重な資料でもある。
漢詩文に優れた才能を見せるとともに、和歌にも秀でていた。天暦5年(951年)に和歌所の寄人となり、梨壺の五人の一人として『万葉集』の訓点作業と『後撰和歌集』の撰集に加わった。天徳4年(960年)の内裏歌合にも出詠し、さまざまな歌合で判者を務めた。とくに斎宮女御・徽子女王と、その娘の規子内親王のサロンに親しく出入りし、貞元2年(977年)に規子内親王が斎宮として伊勢国へ下ったときには、その群行にも随行した。
しかし、この多才ぶりは、伝統的な大学寮の紀伝道では評価されなかったらしい。文章生に補されたのは和歌所寄人になった2年後の天暦7年(953年)で、43歳のときだった。天暦10年(956年)に勘解由判官となり、民部丞や東宮蔵人を経て、康保3年(966年)に従五位下・下総権守に叙任された。これは遥任である。康保4年(967年)には和泉守に任じられた。ところが、源高明のサロンに出入りしていたことが、在任中の安和2年(969年)に起きた安和の変以後の官歴に影響したとされる。天禄2年(971年)に和泉守を退いたのち、長く散位の生活を送った。その間の天延2年(974年)には従五位上に叙せられている。
天元3年(980年)、順は「年老いて家貧しく、歎き深くして愁い切なり」と不遇を訴え、伊賀・伊勢などの国守に任じてほしいとする奏状を提出した。これによって、ようやく能登守に任ぜられた。永観元年(983年)、能登守の任期中に亡くなった。享年73。下級の貴族の出であったため、作品は公の場よりも私的な集まりで披露されることが多く、公式に詩を求められる機会は少なかったという。中級の官人として働き、私的な教師も務め、なかでも源高明を重要な庇護者とした。中国風の詩文の名手で、『和漢朗詠集』には30首、『本朝文粋』には24編の文章と8首の詩が収められている。『本朝文粋』の作品には風刺的なものもある。和歌は個人の家集『源順集』にまとめられ、和漢の文学の伝統が宮廷で結びついていたことをうかがわせる。勅撰歌人として、『拾遺和歌集』の27首をはじめ、以後の勅撰和歌集に51首が入集している。私家集の『源順集』には、「あめつちの歌」のように、言葉遊びの技巧を凝らした和歌が収められている。大変な才人として知られ、『うつほ物語』『落窪物語』『篁物語』の作者に擬せられ、『竹取物語』の作者とする説もある。ただし、その説には決定的な証拠がないという。
同じ年に亡くなった人物
- アズド・ウッダウラ (983年)
- ベネディクトゥス7世 (ローマ教皇) (983年没)
- オットー2世 (神聖ローマ皇帝) (983年没)
- Abu al-Layth al-Samarqandi (983年)
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