伝記
ソフィア・ヴァシーリエヴナ・コワレフスカヤは、1850年1月15日(ユリウス暦1月3日)にモスクワで生まれたロシア帝国の数学者で、愛称はソーニャという。ロシア人では初めて、ヨーロッパ全体でも3番目に大学教授の地位を得た女性である。父はロシア帝国陸軍の砲兵将校(のちの陸軍中将)で、貴族の家系に属した。母エリザヴェータ・シューベルトはドイツ系のロシア貴族の出身で、祖父は数学者・天文学者のテオドール・シューベルトである。姉アンナは作家でパリ・コミューンにも参加した革命家だった。
幼少期は、現在のベラルーシにあたるヴィテプスク県で過ごした。数学への関心のきっかけは父と叔父にあった。父は子供部屋の壁紙が足りなくなったとき、軍隊で微積分を学んだころの教科書を破いて貼ったため、彼女は数学記号を眺めて育つことになった。叔父ピョートルは独学の数学者で、彼女は叔父から数学を教わり、関心を深めた。当時のロシアでは女性は大学に入れず、父は彼女に数学の勉強をやめさせたので、家族が寝静まった夜中に借りた代数学の本をこっそり読んだという。12歳のとき、近所の物理学の教授が与えた光学の本を、三角関数を知らないまま自力で解釈しようとし、数学史で展開されたのと同じ方法で三角関数を説明してみせた。仰天した教授は彼女を「パスカルの再来」と呼び、父に数学を続けさせるよう嘆願して、父も折れたという。
女性は夫や父の許可なしに外国へ出られないため、留学にあこがれる進歩的な女性の間では偽装結婚が多く、彼女も1868年に若い地質学・古生物学者のウラジーミル・コワレフスキーと契約結婚した。1869年にハイデルベルク大学へ向かったが、女性の入学は認められず、大学当局に食い下がって非公式の聴講生となり、ケーニヒスベルガーのもとで楕円関数を学んだ。師ワイエルシュトラスの下で学ぶ決意を固め、1871年にベルリン大学へ移った。この年にはパリ・コミューン下のパリを訪れ、負傷者の看護も行っている。ワイエルシュトラスははじめ弟子入りを断ろうと難問を出したが、彼女が難なく解いたのを見て才能を認め、以後は彼女が亡くなるまで、公私にわたる指導者・協力者となった。大学評議員会が女性の聴講を拒んだため、4年間にわたり個人的に指導した。
1874年に、偏微分方程式、土星の環の形、アーベル積分に関する3つの論文により、ゲッティンゲン大学から口頭試験の免除で学位を授与された。偏微分方程式の研究は、初期値問題の解の存在と一意性を示し、現在は「コーシー=コワレフスカヤの定理」として知られる。同年、夫との仲は契約結婚から本当の結婚になった。ロシアに戻ったが、サンクトペテルブルク大学では職が得られず、声がかかった最もましな職は小学校の算数教師だったという。落胆に父の死も重なり、6年ほど数学から離れた。1878年に娘を産むと、再び数学への情熱が目覚めた。
1883年3月、パリ滞在中に夫が自殺し、衝撃で引きこもって拒食や失神に苦しんだが、同年秋に立ち直った。1884年秋、ミッタク=レフラーの招聘でストックホルム大学の非常勤講師の地位を得て、1889年にはロシア人女性初の大学教授となった。1888年に論文「固定点をめぐる剛体の回転について」でパリの科学アカデミーのボルダン賞を受け、賞金は増額されたという。1889年にはスウェーデン科学アカデミー賞を受賞し、チェビシェフらの推挙でサンクトペテルブルク科学アカデミー初の女性メンバーとなった。1891年2月10日、ストックホルムでインフルエンザと肺炎を併発し、41歳で亡くなった。
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