HISTORICAL PERSON · 1891年没

テオドール・ド・バンヴィル

フランスの詩人・劇作家・批評家。1842年の処女詩集『女像柱』や『綱渡りのオード』『流刑者たち』で知られ、高踏派の先駆者の一人。ヴェルレーヌやマラルメを評価し、若きランボーも訪ねた。

生涯
1891年没
死亡地
フランス共和国(パリ / 6区)
出生地
フランス共和国(ムーラン)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

テオドール・ド・バンヴィルは、1823年3月14日に生まれ、1891年3月13日に没したフランスの詩人、劇作家、批評家である。ルコント・ド・リール、ボードレールと並んで1850年代のフランス詩を牽引し、のちに高踏派の先駆者の一人として詩壇に重きをなした。

アリエ県ムーランに生まれ、幼少時の幸福な体験はのちの作品でしばしば振り返られる。7歳からパリの寄宿舎に入ったが、病弱だったため楽な生活ではなかったらしい。この頃に観劇の楽しみを知り、ロマン主義の詩人の作品にも出会った。リセ・ブルボンではゴンクール兄弟などの将来の文学者と知り合い、16歳ころから詩作を始めた。1840年にパリ大学法学部に登録したが、当時の文学者志望の若者の例に漏れず卒業はせず、翌年ボードレールの知遇を得た。1842年、事実上の自費出版で処女詩集『女像柱』を出し、当時の詩壇で一定の評価を受けた。19歳でのデビューはミュッセに匹敵する早さである。1846年には第二の詩集『鍾乳石』を発表し、奇数脚の使用など、抒情詩の可能性の模索を続けた。同年に海軍退役軍人であった父が亡くなり、生計のために様々な定期刊行物へ寄稿を始めた。

1851年からは劇作にも着手し、1852年末にオデオン座で『アリストパネスの文芸欄』を上演した。1857年の『綱渡りのオード』は、抒情詩と滑稽の合一をめざし、その滑稽さは詩句と内容のずれや既存の作家のパロディから生まれている。同年、それまでの詩集と未刊の詩をまとめた『全詩集』を出版した。1850年代の最後の数年は神経症を病み、療養を余儀なくされたが、1860年に女優マリー・ドーブランとニースに滞在して健康をとりもどした。1861年にパリへ戻ると創作を再開し、1862年に『紫水晶』を出し、『森のダイアナ』などの劇作も続け、1867年に自身が最も評価した詩集『流刑者たち』を出した。同時期に『第一次高踏派詩集』が発刊され、その中で重要な位置を占めた。ルコント・ド・リールと並んで後続の世代を導き、その元を訪れた若い詩人の中には、家出してきたランボーもいた。

普仏戦争やコミューンの時もパリを離れず、愛国的な詩を連載し、これらは戦後の1872年に『プロイセン田園詩』としてまとめられた。同年に詩論書『フランス詩小論』を出版し、詩は歌われるものであり、脚韻は詩の必要条件だと強調して、ユゴーをはじめとするロマン主義の詩法を擁護しながら、後続の詩人たちの革新に先駆ける独自の論考も含めた。ヴェルレーヌの作品を即座に評価し、『第三次現代高踏派詩集』の編集委員の中でただ一人、マラルメの『半獣神の午後』を認めたのも彼であった。1875年にエリザベト・ロシュグロスと結婚し、義理の息子ジョルジュ・ロシュグロスは作品の挿絵を担当することが多かった。1878年から1879年には『決定版詩集』全3巻を出したが、死ぬまで手を加え続けた。1880年代には散文作品が増え、コントや寓話などを書いた。1891年、パリの自宅で脳溢血のため67歳で死去し、モンパルナス墓地に葬られた。1892年にリュクサンブール公園に建てられた銅像の除幕では、マラルメが式辞を述べた。

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