伝記
ハーマン・メルヴィルは、1819年8月1日にニューヨークで生まれ、1891年9月28日に没したアメリカの作家で、代表作に『白鯨』がある。裕福な輸入商の家に生まれた。八人きょうだいの三番目で、次男とも三男ともいわれる。父アランは、フランスから流行品を輸入する商人だったが、1826年から経済が停滞し、商売が傾いて、義父ピーター・ガンセヴォートから借金を重ねるようになった。1830年に一家は母の実家に近いオールバニーへ移り、2年後、父は多額の借金を残して肺炎で死去し、ハーマンは学校を中退して、ニューヨーク州立銀行で働いた。
その後、16歳で教員の資格を取り、短期間小学校の教員を務め、測量土木の技師も志した。しかし家計が逼迫し、債権者に迫られて、一家はランシンバーグへ夜逃げした。移転先でも暮らしが成り立たず、止むなく1839年に兄の紹介で船員となった。1840年に捕鯨船アクシュネット号の乗組員となり、翌年南太平洋へ向かったが、厳しい環境に嫌気が差し、1842年7月9日、マルケサス諸島のヌク・ヒバ島で仲間と脱走した。タイピー渓谷で先住民のタイピー族に出会い、約1か月滞在した。この経験が小説『タイピー』の元となる。8月にオーストラリアの捕鯨船に救われたが、タヒチ島で乗組員の暴動に巻き込まれ、イギリス領事館に逮捕された。10月にはそこからも脱走してエイメオ島(現在のモーレア島)に隠れ、11月にはアメリカの捕鯨船に救われて、翌1843年4月にハワイに着くまで航海は続いた。この体験は、その後の作品に大きな影を落とした。
ホノルル滞在中の1843年8月にアメリカ海軍のフリゲート艦の水兵となり、1844年にランシンバーグへ帰郷した。留守中に実家の家計はよくなり、兄弟も独立していたので、文筆で身を立てようと考え、マルケサス諸島の体験を元に、1845年に処女作『タイピー』を発表した。続く『オムー』(1847年)とともに成功し、ボストンの法律家の娘エリザベス・ショーと結婚する余裕を得た。『マーディ』(1849年)は不評で、『レッドバーン』と『白いジャケツ』は家族を養うほどは売れなかった。1850年、メルヴィルは『ホーソーンとその苔』でナサニエル・ホーソーンを絶賛し、二人の交友が始まった。翌年に『白鯨』を発表したが、これも読者を得られず、心理小説『ピエール』(1852年)は批評家に蔑まれた。
1853年から1856年には短い小説を雑誌に発表し、『代書人バートルビー』や『ベニート・セレーノ』はこの時期の作品である。1857年に最後の散文作品『詐欺師』を出した。諸作品はことごとく評価されず、文筆で食べていくことはできなかった。領事館や海軍に職を求めたが、雇い口は見つからなかった。1866年に南北戦争についての見聞を72編の詩にした詩集を制作し、同年12月、妻の親戚のつてでようやくニューヨーク税関の検査係の職を得た。1867年には長男マルコムがピストルで自殺し、自宅の焼失もあり、次男スタンウィクスは出奔し、1886年にサンフランシスコで病死した。1876年に叙事詩『クラレル』を出版し、のちには自費で詩集も出した。遺作の中編小説『ビリー・バッド』は未完のまま残り、1924年に刊行された。1891年に没した。
難解な作風のため、一部の愛好者を除いて無視され続けたが、死後三十年を経た1921年に再評価が始まり、『メルヴィル著作集』全16巻が刊行され、『白鯨』は映画化もされた。今ではアメリカを代表する文学者として世界で知られている。
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