伝記
アルチュール・ランボーは、1854年10月20日にフランス北部、ベルギー国境に近いシャルルヴィルで生まれ、1891年11月10日に没した詩人である。陸軍大尉と小地主の娘の第二子として生まれた。父は任地にいて不在がちで、末の妹イザベルが生まれた後はランボーが六歳のころから家に戻らなくなり、厳格で勤勉、気位が高く、非常に信心深い母ヴィタリーが女手一つで子を育てた。ランボーは幼時にこの母の影響を強く受けたとされる。1861年に私立学校に入り、一家の引っ越しにより1865年に市立シャルルヴィル高等中学校に転校した。早熟な天才と称され、模範的な優等生で、ラテン語の詩などで数々の優等賞を得た。
詩人としての出発は、1870年1月、十五歳のときに修辞学の教師として赴任したジョルジュ・イザンバールとの出会いにあった。二十二歳のイザンバールは革命思想の持ち主でもあり、その教養と思想の影響を受けたランボーは読書に没頭して詩作を始めた。同年のうちに「孤児たちのお年玉」を文芸誌に発表し、5月にはイザンバールの勧めで、バンヴィルに「オフィーリア」「感覚」「太陽と肉体」の三編を送った。高踏派の詩に倣ったものだが、とりわけ「感覚」は、独自の世界を切り開くものとして後に高く評価された。
同年8月、ランボーは家出をして普仏戦争下のパリに向かったが、無賃乗車のために逮捕され、シャルルヴィルに送り返された。その後の数か月にさらに二回家出をし、北フランスやベルギーを放浪しながら詩を書き続け、戦争に関する「谷間に眠る男」なども書いた。うち二十二編を二冊の手帖に清書して、詩人に託した。1871年5月13日付のイザンバール宛と5月15日付のドメニー宛の手紙は、詩人としての宣言文「見者の手紙」として知られる。そこで彼は、詩人は「あらゆる感覚の、長期にわたる、途方もない、筋の通った乱用によって、おのれを見者に作り上げる」のだと述べ、自己を拘束する既成概念や因習を捨て去り、未知を体系的に探求すべきだと宣言した。
同じ頃、ヴェルレーヌに詩を送るよう勧められ、「びっくり仰天している子ら」「税関吏」「盗まれた心」などの五編を送り、「酔いどれ船」の執筆に取りかかった。9月中頃にヴェルレーヌから「やって来たまえ。偉大な魂よ、われらはきみを呼び、きみを待つ」という手紙が届き、旅費も同封されていた。こうして1871年9月、ランボーは「酔いどれ船」を携えて十七歳で上京し、ヴェルレーヌの義父母のもとに身を寄せた。長編韻文詩「酔いどれ船」をヴェルレーヌは絶賛した。乗組員を失って海に漂う船が「私」であり、未知の世界に酩酊する「見者」としての詩人の姿である。
パリでは前衛的な文学者や芸術家と知り合ったが、1872年3月2日の晩餐会で口論になり、ランボーが仕込み杖で写真家の手を傷つけた。怒った写真家がネガを廃棄したため、今日残るランボーの写真は一枚だけである。グループから追放されたランボーは、ヴェルレーヌとともにベルギーとロンドンを放浪した。妻と息子を置き去りにしていたヴェルレーヌの後を追った妻マチルドは、ブリュッセルから彼を連れ戻そうとしたが、国境の駅で彼は姿を消した。二人はヴェルレーヌの母の送金に頼って暮らし、酒浸りの日々や喧嘩、修羅場を重ねながら、ヴェルレーヌは『言葉なき恋歌』、ランボーは『地獄の季節』と『イリュミナシオン』の制作に結びつく経験を得た。1873年4月、消耗しきったランボーは故郷の農場に戻り、同年『地獄の季節』を出版した。二十歳で詩を放棄するまでの数年で、詩の伝統を大きく変えた。
同じ年に亡くなった人物
- エミール・バヤール (1891年没)
- ハインリヒ・グレーツ (1891年没)
- カール1世 (ヴュルテンベルク王) (1891年没)
- ヨハネス・ボスボーム (1891年没)
- アマーリア・リンドグレーン (1891年没)
同じ地域に関係する人物
- フリードリヒ・アウグスト・ヴォルフ (1824年没)
- ベルナール・チュルーヤン (2019年没)
- ノロドム・ラナリット (2021年没)
- ル・ペトマーヌ (1945年没)
- Euthymenes (紀元前600)