伝記
ユーグ・カペーは、ロベール家の出身でフランスのカペー朝を開いた王で、在位は987年から996年である。生まれは940年ごろとされ(939年から941年の間、おそらくドゥルダンの城ともいわれる)、996年10月24日に亡くなった。父はフランク公ユーグ大公、母はその3人目の妃エドヴィジュ・ド・サックスである。母は東フランク王ハインリヒ1世の娘で、神聖ローマ皇帝オットー1世の実妹にあたる。祖母のベアトリスを通じてカロリング家の血を、母を通じてドイツの血を引いていたとされる。
956年6月に父が没すると、ユーグは長男としてロベール家の家長となり、フランク公位を継承したが、まだ少年であった。そのため、母方の叔父でケルン大司教のブルーノが、二人の弟とともに後見した。父大公はネウストリアに広大な領地を持っていたが、没後にブロワ伯ティボーやアンジュー伯フルク2世などの配下の離反が相次ぎ、ロベール家の所領は現在のイル=ド=フランスとオルレアン地方だけにまで縮んだという。彼は弟ウード=アンリのブルゴーニュ公襲位をめぐり、956年から960年まで西フランク王ロテールと争ったが、978年にはオットー2世の復讐の侵攻を、ロテールに協力して退けた。960年にロテールが父のフランク公とネウストリア辺境伯の称号を与え、当時で最も豊かな貴族であったともいわれ、勢力の評価は分かれる。
986年にロテールが亡くなってルイ5世が即位し、翌987年にルイ5世が亡くなると、ランス大司教アダルベロンが、折しもサンリスで開かれていた聖俗の大諸侯会議を主導した。彼は「王位は世襲ではなく、気品と英知で選ばれるべきだ」としてカペーを推し、ロテールの弟である下ロートリンゲン公シャルルを退けて選出させた。カペーは同年7月3日にノワイヨンでアダルベロンにより聖別されて戴冠した。50歳に近かった。ドイツの母后テオファヌもカペーを支持したが、これはロートリンゲンをドイツに確保するためで、結果としてカペーはロートリンゲンを放棄することとなった。また、バルセロナ伯ラモン・ボレイが臣従を拒否し、以降フランクから事実上独立することになった。
アダルベロンは王位は選挙によるという考えだったが、それではカペーに不都合であったため、彼は即位した年の12月に、子のロベールを共同統治者として戴冠させた。この疑似世襲は、以降6代にわたって踏襲された。在位中は、ノルマンディー、ブルゴーニュ、アキタニア、フランドルなどの封建諸侯に苦しめられた。カペーは996年にパリで亡くなり、サン=ドニ大聖堂に埋葬された。「カペー」は、俗人の修道院長が羽織った短いケープに由来するあだ名が家名になったとされるが、語源には諸説がある。
妻はアキテーヌ公ギヨーム3世の娘アデライードで、のちに王となるロベール2世らの子がいた。彼の子孫は、ヴァロワ朝からブルボン朝へと男系で血統をつなぎ、フランス革命とナポレオンの時代を除き、1848年まで続いた七月王政まで、800年以上フランスの王権を保った。多くの史家は、この王位継承をもってフランク王国が終わり、フランス王国が始まったと解釈している。
同じ年に亡くなった人物
- アズィーズ (996年)
- ヘルマン1世 (ロートリンゲン宮中伯) (996年没)
- ヨハネス15世 (ローマ教皇) (996年没)
- スティエパン・ドルジスラヴ (996年没)
- ウード1世 (ブロワ伯) (996年没)
同じ地域に関係する人物
- マリー・ド・ブローニュ (1182年没)
- シャルトルのイヴォ (1115年没)
- Louis Perree (1924年没)
- アンリ (パリ伯) (1999年没)
- モーリス・ド・ヴラマンク (1958年没)