伝記
ジョージ・ビドル・エアリーは、1801年7月27日にイングランドのノーサンバーランド州アニックで生まれ、1892年1月2日に没したイギリスの天文学者である。グリニッジ天文台長(王室天文官)を1835年から1881年まで務め、王立協会の会長も1871年から1873年に務めた。アニックで生まれたエアリー家は、14世紀にウェストモーランドのケントミアに住んだ家に遡るとされる。ヘレフォードの小学校とコルチェスターの王立文法学校で学び、内気な子どもだったが、豆鉄砲の筒を作る腕前で同級生に人気があったという。13歳のころから、サフォーク州にいる叔父アーサー・ビドルのもとにしばしば滞在し、奴隷貿易廃止論者のトマス・クラークソンと知り合った。クラークソンが古典を試験し、続いて数学の知識をケンブリッジのトリニティ・カレッジのフェローに試験させる手はずを整えたことで、エアリーは1819年に減免の授業料で入学する学生として、同カレッジに入った。
大学では優秀で、ほとんどすぐに同期の首席と認められた。1822年に特待生に選ばれ、翌1823年に首席の成績で卒業して、スミス賞の首席を得た。1824年にトリニティのフェローになり、1826年にはルーカス教授職に就いたが、約1年で退き、1828年にプルミアン教授職に選ばれ、新設のケンブリッジ天文台の台長となった。当時の同天文台には子午儀しかなかったが、エアリーは組織づくりの才能を発揮して、規則的な観測と丁寧な整理の体制を整え、観測結果を毎年きちんと出版して、同時代人を驚かせた。1831年には、光の波動論に関する研究に対して、王立協会のコプリ・メダルを受けた。1835年には『円形開口の対物レンズの回折について』を著し、理想的な望遠鏡でも、星の像は一定の大きさの円盤になることを示した。これは今日、エアリー・ディスクと呼ばれる。虹についても、波動の考えから過剰虹の明暗分布を示す関数を導いた。
1835年にグリニッジ天文台長に移ると、設備と機構を大幅に整え、自身も観測機械を発明・改良した。1851年に設置した子午環は1927年まで使われ、その上を通る子午線が、のちに世界の本初子午線となった。1884年にワシントンで開かれた会議で、グリニッジの子午線が25か国の同意を得て、現在の経度0度とされた。また1851年には、鉄道会社、電信会社、海軍省と交渉し、電信でグリニッジ時間を各地の鉄道駅や郵便局、時計製造業者に届ける仕組みを実現させた。地球の平均密度を測る試みにも取り組み、1854年にハートン炭鉱の竪坑で振り子の実験を行って、坑底の重力が地表より大きいことを示した。アイソスタシー説の提唱者でもあり、橋梁の解析を通じて応力関数も提示した。
一方で批判もある。チャールズ・バベッジの計算機の開発計画については、役に立たないから中止すべきだと財務省に進言して中止させ、バベッジとは鉄道の軌間をめぐっても衝突を繰り返した。ジョン・クーチ・アダムズが未知の惑星の位置を計算して結果を渡したときも、エアリーはルヴェリエの計算が出るまで探索を始めず、海王星の発見はドイツのガレに先を越された。この取り組みの姿勢は厳しい批判を受けた。1872年にナイトに叙されている。
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