伝記
アグム3世は、バビロンのカッシート朝の王である。紀元前15世紀半ば頃に在位したとされる。王名表ではカッシート朝の14代目とされるが、13番目前後という推定もある。王名表Aのこの部分には欠損があり、それはアッシリアの同期王名表にも共通するため、順序は確定していない。
出自には異説がある。カシュティリアシュの子で、叔父ウラム・ブリアシュの跡を継いだとされる一方、ウラム・ブリアシュの子で父の後を継いだとする記述もある。ウラム・ブリアシュはブルナ・ブリアシュ1世の子とされ、アグムは「初期の王たちの年代記」でその後に言及されることから、ブルナ・ブリアシュ1世の後継者の一人とみられる。この年代記は彼に王の称号を付していないが、称号の扱いが一貫しない文書であり、アグムが自らの軍を召集したとも記している。後継者はカライン・ダシュだが、両者の血縁は分かっていない。
バビロニア側で彼に触れる記録は少なく、ほぼ唯一のものが、紀元前1465年頃に率いた「海の国」への遠征である。海の国はシュメールにあたる地域とされる。この遠征は、年代記の直前の行に記された、叔父ウラム・ブリアシュによる侵攻に続くものであり、叔父は先に「国の主」となっていた。相手が対立するカッシートの王国か、反抗的な州か、復活した海の国の王朝かは、記されていない。アグムは未詳の都市ドゥル・エンリルを征服し、その神殿エガルガシェシュナを破壊して、メソポタミア南部全域を掌握したと伝えられる。海の国で反乱が起こったが、鎮圧されたという記述もある。これによりバビロニアの統一が完成し、後継者たちが南部の諸都市の再建に取り組む土台が築かれたとも説明される。
1995年、ベアトリス・アンドレ・サルヴィニによるバーレーン(古代のディルムン)の発掘で、約50枚の粘土板が出土した。その一部はアグム3世の時代のもので、カラート・アル・バーレーン一帯の文書に、その3年目と4年目の日付が確認される。このためカッシートの支配が島に及んだ可能性がある。海の国を征服した後に島へ渡り、新しい宮殿を建て、現地の役人組織を置いたという説も出された。だが日付の書式に難点がある。後の王カダシュマン・ハルベ1世とクリガルズ1世の文書は、古い「年名」方式で年を記しており、王の即位から年を数える方式になるのは、その次のカダシュマン・エンリル1世とブルナ・ブリアシュ2世の時代からである。
同じ年に亡くなった人物
- アッシュル・シャドゥニ (紀元前 1500年(推定))
- ヌル・イリ (紀元前 1500年(推定))
- フッツィヤ2世 (紀元前 1500年(推定))
- Senseneb (紀元前1500)
- シャムシ・アダド3世 (紀元前1500)
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