伝記
マケドニアのストラトニケは、紀元前3世紀に生きた女性で、セレウコス朝の王アンティオコス1世ソテル(在位は紀元前281年から261年)と、シリアのストラトニケとの間に生まれた娘である。マケドニア王デメトリオス2世(在位は紀元前239年から229年)の妃となった。
家系をたどると、父アンティオコス1世はセレウコス1世ニカトルとアルタバゾスの娘アパマの子であった。母ストラトニケはデメトリオス・ポリオルケテスとアンティパトロスの娘ピラの娘で、かつてセレウコス1世の妃でもあった。アンティオコス1世とこの母の間には、アンティオコス、ストラトニケ、アパマの三人の子がいたとされる。夫のデメトリオス2世は、アンティゴノス2世ゴナタスの子で、デメトリオス・ポリオルケテスの孫にあたる。
ストラトニケはデメトリオス2世との間にアパマという娘をもうけた。結婚の期間は分かっていないが、紀元前239年ごろまではマケドニアにとどまっていたらしい。そのころ、エペイロスのオリュンピアス2世が、アイトリア人の動きに備えてデメトリオス2世との同盟を求め、娘のピティアを嫁がせた。ストラトニケはこの二度目の結婚に憤って夫のもとを去り、シリアへ退いたといわれる。
シリアでは、甥のセレウコス2世カリニコス(在位は紀元前246年から225年)に、受けた侮辱の報復としてマケドニア王に宣戦するよう促したが、かなわなかった。別の伝えでは、彼女はセレウコス自身に自分と結婚させようと望んでいたともいう。しかし王はバビロニアと帝国の上方諸州の回復に没頭していた。その留守に乗じて、ストラトニケはアンティオキアで反乱を起こした。だが、セレウコスが戻るとあっさり市から追い出され、セレウコペイアに逃れた。そこで包囲されて捕らえられ、処刑されたとされる。
なお、デメトリオス2世とストラトニケを、ビテュニア王プルシアス1世の妃アパマの両親とする説がある。一方で、ロシアの歴史家たちは歯の遺伝的な異常を手がかりに、アパマの母をピティアとみる見方を示している。
同じ年に亡くなった人物
- ルキウス・ユリウス・リボ (紀元前 300年(推定))
- エジプトのエウリュディケ (紀元前300)
- ガイウス・スルピキウス・パテルクルス (紀元前 300年(推定))
- ディオドロス・クロノス (紀元前 300年(推定))
- 王翦 (紀元前 300年(推定))
同じ地域に関係する人物
該当人物はまだありません。