伝記
ラザフォード・バーチャード・ヘイズは、1822年10月4日にオハイオ州デラウェアで生まれたアメリカ合衆国の軍人、弁護士、政治家で、第19代大統領を務めた。ホワイトハウスで就任の宣誓をした初の大統領である。バーモントで雑貨店を営んでいた父は、息子が生まれる10週間前に亡くなった。母ソフィアが決して再婚せず一家を支え、4人の子のうち成人したのはヘイズと妹ファニーの2人だけだった。母の弟サルディス・バーチャードが同居して、ヘイズの父親代わりとなった。
デラウェアのコモン・スクールに通い、1836年にノーウォークのセミナリーに入り、翌年にはミドルタウンの大学進学予備校でラテン語と古代ギリシャ語を学んだ。1838年にケニオン大学に入り、いくつかの学生会に加わってホイッグ党の政治にも関心をもち、1842年に優等で卒業して卒業生総代として演説した。その後コロンバスで短期間法律を学び、1843年にハーバード・ロー・スクールに入った。1845年にオハイオ州の法曹界に入り、ロウワー・サンダスキー(現在のフリーモント)で事務所を開いたが、当初は不振だった。1850年にシンシナティへ移り、事務所を構えて、事業は以前より好調になった。そこで出会ったルーシー・ウェッブと1852年12月30日に結婚し、3人の息子が生まれた。ルーシーはメソジストで、禁酒主義者かつ奴隷制廃止論者であり、ヘイズは彼女の宗教に加わらなかったが、その考えに影響を受けた。1850年代の終わりには、シンシナティの法務官を務めた。
南北戦争が始まると、好調な政治活動を離れて北軍に加わり、1861年6月に第23オハイオ志願歩兵連隊の少佐に任官した。昇進を重ねて大佐となり、勇気と功績で名声を得て、名誉昇進で少将になった。戦闘では5度負傷し、サウス山の戦いで最も重い傷を負った。戦後は共和党員として1865年から1867年まで下院議員を務め、のちオハイオ州知事に二度当選し、1875年には三度目の知事を務めた。
1876年の大統領選挙は、アメリカ史上最も議論を呼んだ選挙となった。民主党のサミュエル・ティルデンが一般投票で上回ったものの、争われた選挙人票20票を議会の選挙委員会がすべてヘイズのものとし、185対184の僅差でヘイズが当選した。南部が当選を黙認する代わりに連邦軍が南部から引き上げるという裏取引があったとの噂が立ち、「イカサマ閣下」とあだ名された。ヘイズはレコンストラクションの終わりに連邦軍を南部から引き揚げ、これにより黒人への差別が再び広がった。1877年の鉄道大ストライキには、連邦軍に鎮圧を命じた。能力主義の政府と教育による改良を信じ、官庁改革に取り組んだが、成果は限られた。再選を求めないという誓いを守り、1880年の選挙に出なかった。
退任後はスピーゲル・グローヴに戻り、教育的慈善活動の提唱者となり、1887年にはオハイオ州立大学の評議員に任じられた。1889年に妻ルーシーを亡くし、深く悲しんだ。1890年にはモホンク湖会議の黒人問題会議の議長を務めた。1893年1月17日、心臓発作によりフリーモントの自宅で死去した。最期の言葉は「私はルーシーの元に行くのを知ってるよ」であったと伝えられる。のちに邸宅は州立公園として寄贈され、1916年には最初の大統領記念図書館・博物館がそこに開館した。
同じ年に亡くなった人物
- アン・プラット (1893年没)
- ジョン・レイ (探検家) (1893年没)
- ウィリアム・スミス (辞書編集者) (1893年没)
- アントニオ・ギスランツォーニ (1893年没)
- アドルフ・イヴォン (1893年没)
同じ地域に関係する人物
- ジョージ・セル (1970年没)
- ジョージ・ヴォイノヴィッチ (2016年没)
- ウィリアム・デハート・ハバード (1976年没)
- チャールズ・フローマン (1915年没)
- ウィリアム・アレン (政治家) (1879年没)