伝記
ジャヤヴァルマン5世は、クメール帝国の王である。国家寺院ジャヤエンドラナガリを拠点とし、ジャヤエンドラプラから国を治めた。その治世にはクメール帝国に20の都市(プラ)があったとされる。没年は1001年とされ、1000年とする説もある。
父ラージェンドラヴァルマンの跡を継いだとき、わずか10歳だった。即位して間もないころは宮廷の官僚たちが王の政治を取り仕切っていた。師は、ハルシャヴァルマン1世の孫にあたる学識豊かなヤジュニャヴァラハで、仏教の教義、医学、天文学に最も通じた人物とされる。ヤジュニャヴァラハは967年に、浮き彫りの美しさでクメール美術の至宝と呼ばれるバンテアイ・スレイを建立した。この寺は王の資金によるものではなく、ヤジュニャヴァラハの妹ジャーハヴィが資金集めを助けたという。
17歳になると、王は自らの国家寺院タ・ケオの建設を始めた。ところが工事中に建物へ雷が落ち、凶兆と受け止められた。宮廷の司祭たちが悪霊を払う儀式を行い、その後に石や象を運び込んで作業を進めたものの、完成には至らず、建設は未完のまま残された。建設の開始は975年ともされ、、1000年ごろに奉献されたが未完成のままであり、碑文では「黄金の峰の山」を意味するヘマシュリンガギリと呼ばれている。ジャヤエンドラナガリは「勝利の王の都」の意で、先王の都のやや西にあたるとされるが、考古学的な痕跡はごくわずかである。
この治世は、碑文に最も多くの優れた大臣、学者、高官の名が見えるともいわれ、貴族の家々が宮廷を支配した。先の二代の王に仕えたアートマシヴァが王の司祭を務め、同じくラージェンドラヴァルマンに仕えたナーラーヤナが高僧を務めた。なかでも最も有力だったのはサプタデーヴァクラの一族で、王室の事柄の大半を牛耳り、のちに1002年のスーリヤヴァルマン1世の即位も助けたという。王自身はシヴァ神を信仰していたが、仏教には寛容で、その治世に仏教は栄えた。仏教徒の大臣キールティパンディタは外国から古い経典を持ち帰ったが、いずれも現存しない。彼は儀式でヒンドゥー教の祈りとともに仏教の祈りも用いるよう司祭に勧めたという。仏教が広まるなか、多くの高い地位に女性も就いた。サプタデーヴァクラ家のプラーナは王が信頼する助言者だった。中国の記録は、カンボジアの女性が占星術と統治の知識に優れ、王族の女性が裁判官などの政治上の高位に就くこともあったと称えている。王の姉妹インドララクシュミーは、インドのバラモンであるディヴァーカラバッタに嫁いだ。
治世は約30年に及び、国は平和で繁栄していたとされる。各地の碑文は、軍人・官僚・僧侶といった貴族の力と豊かさを伝える。トンレサップ湖の西やメコン川の東などの農業の盛んな地域には、広大な所領や寺院への手厚い寄進を記した碑文が残る。行政は「ヴラ・グル」と呼ばれる高官が担い、雨乞いなどの宗教的な役目も果たした。タ・ケオを寄進された人物としてヨーギーシュヴァラパンディタの名が見え、王の義弟ラージャパティヴァルマンなど親族の名も碑文に現れる。王は1001年に没し、死後の名はパラマヴィラローカとなった。その死は、またも内紛が続く時代の始まりとされ、初代ジャヤヴァルマン2世に直接つながる王統の終わりともなった。ウダヤーディティヤヴァルマン1世が一時王位に就いたともいわれるが、やがてスーリヤヴァルマン1世が勢力を伸ばし、1011年ごろには国全体の秩序が回復されたことが碑文から明らかになる。
同じ年に亡くなった人物
- エルフリーダ (1001年没)
- ウーゴ (トスカーナ辺境伯) (1001年没)
- ヨハネス16世 (対立教皇) (1001年)
- 藤原定子 (1001年没)
- ダヴィト3世 (タオ大公) (1001年(推定))
同じ地域に関係する人物
- ソン・セン (1997年没)
- ジャヤーヴァルマン2世 (900年没)