HISTORICAL PERSON · 1002年没

イベリアのヨアネ

グルジアの貴族から修道士となった聖人。皇帝の人質となった息子を救うためコンスタンティノープルへ赴き、アトス山に息子らとイヴィロン修道院を創建し初代典院を務めた。

生涯
1002年没
死亡地
ギリシャ共和国(アトス山)
出生地
ジョージア(ジョージア)
出典
世界地図
ギリシャ共和国(アトス山)

伝記

イベリアのヨアネは、グルジア(ジョージア)の修道士で、キリスト教で崇敬される聖人である。グルジアのヨアネ、アギオリティスのイオアンニス、イヴェロンのヨアネなどの名でも呼ばれ、没年は1002年ごろとされる。ただし1005年にアトス山で没したとする記述もある。アトス山にグルジア人の修道院イヴィロン修道院を創建した人物の一人として知られる。

出自はグルジア南部タオ・クラルジェティの貴族の一族である。結婚して家庭を持ち、軍の司令官として勤務していた。伝承では、豊かな家に生まれ、若いころは騎士としてダヴィド・クロパラテス王に仕える宮廷人だったという。妻と子があり、その子の一人が後のエクフティメである。やがて俗世の生活を捨てる決意をし、960年代の初めにタオ・クラルジェティの四教会の修道院で剃髪して修道士となった。伝承ではそのあとイメレティのコルパ修道院に移ったともいう。

さらに霊的な導きを求め、ビテュニアのオリンポス山(現在のウルダー山)に向かった。ここはビザンツ修道制の著名な中心地であり、聖ヒラリオンが創建したグルジア人の修道院があった。ヨアネはそこで、ろばの群れの世話を務めとしたと伝えられる。数年がたったころ、妻と子が他の貴族たちとともに、ビザンツ皇帝とイベリア王との取り決めによる人質としてコンスタンティノープルにいると知った。そこで同地に赴き、皇帝に息子の解放を求めて、人質とされていた息子エクフティメ(啓蒙者エクフティメ)を救い出し、オリンポスの修道院に連れ帰った。のちにヨアネと息子は敬虔さと指導力によって多くの弟子を集めた。

二人はアトス山に向かい、963年から969年のあいだに到着したとされる。聖アサナシオスの大ラヴラ修道院に入ると、ヨアネは出自とそれまでの修道生活を隠して、厳しい生活を送ろうとした。だがそれは明るみに出て、その名声に引かれてグルジア人の修道士が大ラヴラに集まるようになった。そこで院長のギリシア人修道士アタナシオスは、彼らに別の修道院を建てるよう命じた。ヨアネは、将軍職を退いていた義兄弟のトルニコスの協力を得て、イヴィロン修道院を創建した。この修道院は980年ごろにできたとされ、アトスにおけるグルジア修道文化の拠点となった。ヨアネは初代の院長を務め、精神面と運営の両面を導いた。その指導のもとで修道院はグルジアの美術、写本制作、典礼研究の中心となり、グルジアとビザンツの宗教共同体の結びつきを強めたといわれる。

984年ごろ、ヨアネは院長を辞してアトスを去り、息子エクフティメら数人の修道士とともにシナイ山の聖カタリナ修道院に向かおうとした。しかしビザンツ皇帝バシレイオス2世と話し合ったすえ、アトスにとどまることに同意した。数年後に重い病にかかり、共同体の指導をエクフティメに譲った。没したのは修道院で、その地に葬られたという。墓はやがて病が癒える場所になったと伝えられる。生前からすでに聖人とみなされ、グルジア人にもギリシア人にも深く敬われた。アトス山にグルジア人の修道制を根づかせた功績は同時代にも広く認められ、彼をたたえる聖歌がつくられた。そのうち12世紀前半の二つが今日まで伝わる。イヴィロン修道院は今もアトスにおけるグルジア修道文化の主要な拠点であり、ヨアネはその創設者の一人として記憶されている。ヨアネとエクフティメの生涯は、親族の修道士ゲオルギオスが書き残した。

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