HISTORICAL PERSON · 1894年没

シャルル=マリ=ルネ・ルコント・ド・リール

フランスの高踏派の詩人・劇作家。『古代詩集』でギリシア神話の神々をうたい、感情の吐露を排した客観的な詩風を貫いた。

生涯
1894年没
死亡地
フランス共和国(イヴリーヌ県 / ルーヴシエンヌ)
出生地
フランス共和国(サン=ポール)
出典
世界地図
フランス共和国(イヴリーヌ県)

伝記

シャルル=マリ=ルネ・ルコント・ド・リールは、1818年10月22日に西南インド洋のブルボン島、現在のレユニオン島のサン=ポールで生まれたフランスの詩人、劇作家で、高踏派の中心となった人物である。ルコント・ド・リールという姓はペンネームである。父はブルターニュの出身、母はラングドックの出身で、島で農園を経営していた。一家の移住にともなって、幼少期はレユニオンとブルターニュの間を行き来し、1822年から1832年にはナントで学んだ。島に戻ると、ヴォルテール、ルソー、ラマルティーヌ、ユーゴーなどを読み、詩や随筆を試みた。中等教育のころにユーゴーの『東方詩集』に出会い、このころ最初の文学的な習作を書いている。インドや東南アジアにも遊んだ。

1837年に島を離れて本国に渡り、バカロレアを取って法学を学ぶため、レンヌの法学部に入学し、法学を学ぶかたわら文学に親しんだ。1841年に法律のバカロレア資格を、苦労の末に得た。1843年から1845年のころ、空想的社会主義者フーリエの流れをくむ新聞『デモクラシー・パシフィック』の編集者たちから、詩集の出版の約束とともに仲間に入るよう誘われ、1845年にブレストで会ったポール・ド・フロットとともにパリへ向かった。そこでボードレールに会い、民主主義とフーリエ主義の思想に傾倒した。『デモクラシー・パシフィック』紙と『ファランジュ』誌の編集委員として、のちに『古代詩集』にまとめられる詩や短編を発表し、古代の神話や芸術への関心を深めた。

1848年の二月革命のときには、植民地の奴隷廃止運動の先頭に立ち、議員に立候補したが当選しなかった。革命の後の展開に失望し、1852年に第二帝政に移ると政治と絶縁して、翻訳などの内職をしながら文筆に専念した。1852年、34歳のときの『古代詩集』では、詩は詩の世界に閉じこもるべきだと宣言し、ギリシア神話の神々をうたった。生涯、感情の吐露を排して客観的な描写に徹する詩風を貫いた。1853年から1855年には、ルイーズ・コレ、フローベール、ヴィニーらのもとにも出入りした。サント=ブーヴの前で詩「真昼」を朗読して感銘を与え、後にはその評論で詩が取り上げられた。

1862年に『夷狄詩集』を出したころから、マンデスやプリュドム、コペ、エレディアらが、彼の「土曜サロン」に集まり始め、1866年に彼らの第1次『現代高踏詩集』が刊行された。彼は序文で示した原則を通じて、ロマン派と象徴主義の間の世代の詩人たちの旗頭と見なされる。1872年、54歳でパリ上院の図書館の司書となって生活が安定し、翌年には韻文悲劇『復讐の女神たち』がオデオン座で上演された。1884年に『悲劇詩集』がアカデミー・フランセーズ賞を受け、1885年に「詩王」に選ばれ、1886年にユーゴーの後任としてアカデミー・フランセーズの会員になった。1877年の最初の立候補は落選している。1894年7月17日、ヴォアザン村の知人の別荘で、肺炎のため急逝した。サン=シュルピス教会で葬儀が営まれ、モンパルナス墓地に葬られた。のちに遺灰は、本人の願いに従って、レユニオンのサン=ポールの墓地に移された。

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