HISTORICAL PERSON · 1895年没

アレクサンドル・デュマ・フィス

フランスの劇作家・小説家で、大デュマの息子。高級娼婦マリー・デュプレシとの思い出を小説『椿姫』にして代表作とし、戯曲版は1850年に上演されて大成功を収めた。のちアカデミー・フランセーズ会員となった。

生涯
1895年没
死亡地
フランス共和国(イヴリーヌ県 / マルリー=ル=ロワ)
出生地
フランス共和国(former 2nd arrondissement of Paris)
出典
世界地図
フランス共和国(イヴリーヌ県)

伝記

アレクサンドル・デュマ・フィスは、1824年7月27日にパリで生まれ、1895年11月27日に没したフランスの劇作家、小説家である。父(大デュマ)と区別して「小デュマ」と呼ばれる。ロマン主義演劇の大家であった父の影響を受けながらも、小さな世界を写実的にしっとりと書く作風が特徴である。代表作は小説『椿姫』である。

同名の父と、縫製工の母カトリーヌ・ロール・ラベの私生児として、現在のパリ2区のボイエルデュー広場1番地に生まれた。母は父の隣人で、自宅で縫製の仕事をしていた。父母不詳の子として届けられたが、7歳になる1831年に父に正式に認知され、できうる最高の教育を受けた。1833年に寄宿学校に入り、同級生にエドモン・ド・ゴンクールがいた。リセ・コンドルセの前身にあたる王立ブルボン学院で1839年から1841年まで学んだが、大学入学資格試験に失敗して学業をやめ、父の金で遊び歩く、最も目立つ若い伊達男の一人となった。子供と引き離された母の苦悩や、青春期に受けた周囲からの偏見は、のちの作風に大きく影響し、彼は生涯、深い恨みを抱き続けたといわれる。

1844年の暮れ、20歳のときに、7人もの大金持ちのパトロンを持つ高級娼婦マリー・デュプレシと出会って恋に落ちた。マリーは間もなく病死し、1848年2月、彼女との思い出を小説『椿姫』として書き上げて出版した。サン=ジェルマン=アン=レーの宿に滞在して、わずか3週間で書き上げたという。この本の大成功は、彼を社交界から遠ざけて文学の道を開いた。1849年に勧めに従って1週間で戯曲版を書き上げ、1850年に上演されると大成功を収めた。この初演以降、パリの演劇界で絶大な影響力を持ち、経済と文学の両面で成功した。『椿姫』は1853年にヴェルディによってオペラ『椿姫』として脚色され、のちに多くの作品の基となった。ジョルジュ・サンドを「親愛なる母さん」と呼んで慕い、彼女の小説を舞台用に脚色してもいる。

その後は『私生児』や『放蕩親父』などの戯曲で、捨てられた女性や非嫡出子に対する社会の仕打ちを厳しく批判し、「醜聞の作家」と目された。1872年には『女性の問題』を書いている。1874年にアカデミー・フランセーズの会員(座席番号2)に選ばれ、パスツールやジュール・ヴェルヌとも親交を結んだ。

私生活では、ロシア貴族のナジェージダ(ナディーヌ)と当時は世間に認められない関係にあり、1860年に娘コレットが生まれた。ナディーヌはナルイシキン公の妻だったが、公の死後に結婚し、結婚後にも娘ジャニーヌをもうけた。1887年に別の女性と関係を持ったため、ナディーヌは家を出た。1895年に妻が亡くなり、3か月足らずのうちに、その女性アンリエット・エスカリエと結婚した。まもなく11月27日、パリ近郊マルリー=ル=ロワの自宅で死去し、モンマルトル墓地に埋葬された。墓の横臥像は彫刻家サン=マルソーの作である。孫のひとりアレクサンドル・リップマンは、20世紀初頭にオリンピックのフェンシング代表として活躍した。父方の祖父は、軍人で白人と黒人の混血のトマ=アレクサンドル・デュマである。

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