HISTORICAL PERSON · 1017年没

ラモン・ボレイ

992年からバルセロナ、ジローナ、オーサ伯を務めた。アルマンソルの侵攻に対処し、1003年にリェイダへ遠征した。アルマンソルの子の襲撃もトラの戦いで退けられた。

生涯
1017年没
死亡地
スペイン王国(バルセロナ県 / バルセロナ)
出生地
スペイン王国(ジローナ)
出典
世界地図
スペイン王国(バルセロナ県)

伝記

ラモン・ボレイ(ラモン・ボレル)は、972年に生まれ1017年に没したバルセロナ伯である。バルセロナ伯ボレイ2世と、ルエルグ家出身のレトガルダの子で、ジローナ伯、オゾーナ伯の称号も帯びた。988年ごろから父とともに諸伯領を統治し、992年からは単独で治めた。父は992年初めに権力から退いたとみられている。

治世の大半は、コルドバ・カリフ国との戦いに費やされた。1000年から1002年のあいだには、宰相アルマンソルの侵入に対処しなければならず、アルマンソルの攻撃でマンレザは完全に破壊され、その後二十年ほど廃墟のままだったという。1002年にはヴィクの司教アルヌルフを伴ってローマへ赴き、教皇と会って、サン・ベネト・デ・バージェス修道院をめぐる問題の解決を図った。アルマンソルが没すると、ラモンは好機とみて1003年にリェイダへの遠征を行った。ウルジェイ伯らと協力し、アルベサの戦いで勝利して多くの戦利品を得たが、政治的な成果は乏しかった。アルマンソルの子アブド・アルマリクがその後も父の作戦を引き継いだからである。アルマリクによるバルセロナ伯領への襲撃は、キリスト教勢力の同盟軍がトラの戦いで撃退したとされる。

1008年にアブド・アルマリクが没すると、カリフ国は分裂に向かい、ウマイヤ家の二人の王位請求者が争った。1009年にコルドバへ入ったスライマーン・ムスタイーンに対抗し、カタルーニャの伯たちはバルセロナで開かれた大会議で同盟を結んだ。この会議はバルセロナ大聖堂の改修に着手するために開かれたもので、諸司教のほか、ウルジェイ伯、ベサルー伯ベルナト・タイユフェルらが参加した。1010年、ラモンは、ヴィクの司教やウルジェイの司教サリャの援助を受け、ウルジェイ伯エルメンゴル1世、ベサルー伯ベルナト1世とともに遠征を組織し、反乱側のムハンマド2世と合流した。連合軍はスライマーンの軍を破り、1010年5月にコルドバを略奪した。しかしエルメンゴルはこの戦いが原因で死に、ヴィク司教とウルジェイ司教もこの遠征で命を落とした。6月2日にはアクバト・アルバクルの戦いにも、ムスリムの反乱側に立って加わっている。1011年にウルジェイ伯が没すると、幼い後継者の後見はラモンに任された。

1015年から1016年にかけては、スライマーンに対する新たな攻勢として、セグレ川とエブロ川の流域へ遠征した。この遠征で得た財宝により、配下の貴族たちの忠誠を保てたとされる。このころ、サラゴサを中心に独立した王国をつくりつつあった人物と同盟し、その宮廷を訪れて、息子ベレンゲー・ラモンとその娘サンチャとの縁組を取り決めた。内政では、セガッラ、コンカ・デ・バルベラ、カンプ・デ・タラゴナの再植民を進め、カタルーニャの君主として初めて自らの貨幣を鋳造した。

1017年にも同盟者とともに遠征を企てたが、断念してバルセロナに戻り、その地で没した。遺言でバルセロナ大聖堂の再建に多額の寄進を行い、大聖堂の回廊に葬られたというが、墓の所在は失われた。オリバ修道院長は葬送の歌を捧げ、ラモンを王のようにふるまった人物と詠んだ。妻エルメジンダ・デ・カルカソナ(991年ごろまたは993年に結婚)に息子の後見が託され、子のベレンゲー・ラモンが母の摂政のもとで跡を継いだ。ほかにボレイ・ラモンがおり、娘にエティエネット(ステファニー)がいたともされる。

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