伝記
ポール・マリー・ヴェルレーヌは、1844年3月30日にフランス東部モゼル県のメスで生まれた詩人である。マラルメ、ランボーらとともに象徴派と呼ばれ、約540篇の詩を残す一方、破滅的な人生を送った。父はベルギー生まれのフランス軍人、母はアラス近郊の生まれで、経済的には恵まれていた。父の退役後、7歳で一家とともにパリに出て、小学校の寄宿舎に入り、次いでリセ・ボナパルトに進んだが、修辞学級は卒業に至らなかった。大学入学試験に合格して、20歳でパリ市役所の書記となった。14歳でヴィクトル・ユーゴーに習作を送り、ボードレールの『悪の華』などを乱読した。1863年、19歳のときに匿名で雑誌に投稿してパリの文人たちを知り、1866年には第1次「現代高踏詩集」に7篇を寄せた。
1867年、従姉の出資で処女詩集『サテュルニアン詩集』を出版した。翌年にはブリュッセルで『女友だち』を匿名で刊行し、軽罪裁判所に断罪されたが、亡命中のユーゴーを訪ねている。1869年に『艶なる宴』を刊行した。1865年に父を喪ったのち、18歳のマチルド・モーテと婚約して翌年に挙式した。やがて普仏戦争に召集され、1871年のパリ・コミューン鎮圧の騒擾はパンテオン近くの自宅で避けた。失職し、長男ジョルジュが生まれた。この間に婚約時代のマチルドを歌った『優しき歌』を書いている。
1871年、16歳の少年ランボーから手紙を受け、その詩心に感心して交際を始めた。結婚から1年ほどで、妻に乱暴を繰り返したうえでランボーと同棲し、イギリスやベルギーなどを転々とした。母と妻が説得に来ても置き去りにして逃げた。ロンドンで病臥して母を呼んだのち、ブリュッセルのホテルで口論となったランボーを購入した拳銃で2発撃ち、1発が手首に命中した。この騒動で2年間収監され、獄中で妻の別居請求が認められたと知って落胆し、カトリックに帰依した。獄中で書いた『言葉なき恋歌』が友人の手で刊行された。1年半後に出獄して妻との和解を図り、旅先でランボーと格闘したが、のちに教職に就き、イギリスやアルデンヌ県の学校で教えた。生徒の少年リュシアン・レチノアに惚れ、授業を降ろされ、その後も彼と英国へ渡った。リュシアンが亡くなると、その故郷で放浪の日々を送り、泥酔して母の首を絞めて入牢した。
1881年に『叡智』を出したが、売れ行きは振るわなかった。1884年に評論『呪われた詩人たち』を刊行し、1885年には『昔と近頃』で、ようやく文名が知られるようになった。しかし経済的な援助をしていた母が死去しても、病気のため葬儀に出られず、ホテルを追い出されて、慈善病院を転々とした。生活費のためオランダやイギリスへ講演旅行をし、晩年にはデカダンスの教祖と仰がれた。1894年にはルコント・ド・リールの後任として「詩王」に選ばれ、文部省から救済金500フランを受けた。1896年1月8日、パンテオン近くの自宅で、娼婦に看取られて死去した。葬儀はサン・テチエンヌ・デュ・モン教会で行われ、マラルメらが参列した。バチニョル墓地に埋葬された。初期の作品のほうが評価が高いとされる。
同じ年に亡くなった人物
- ジョン・エヴァレット・ミレー (1896年没)
- アルマン・フィゾー (1896年没)
- マルセロ・ヒラリオ・デル・ピラール (1896年没)
- エルンスト・エンゲル (1896年没)
- ジョージ・ワシントン・ゲイル・フェリス・ジュニア (1896年没)
同じ地域に関係する人物
- アントワーヌ=ドニ・ショーデ (1810年没)
- エミール・クラペイロン (1864年没)
- Juan Bautista Ceballos (1859年没)
- レオポルド・シュルホフ (1921年没)
- アントワーヌ=アンリ・ジョミニ (1869年没)