伝記
ナーセロッディーン・シャーは、1831年7月に生まれたガージャール朝第4代のシャーで、第3代シャーのモハンマド・シャーの子である。在位は1848年9月から1896年5月1日までで、イランの歴史の中で、サーサーン朝のシャープール2世とサファヴィー朝のタフマースブ1世に次いで3番目に長く、治世は50年近くにわたった。シャーとしては初めて日記を刊行した人物であり、イラン国王として日本人と初めて接触した人物でもある。1848年に父の訃報が伝えられたとき、タブリーズにいたナーセロッディーンは、アミール・キャビールの力を借りて、孔雀の玉座にのぼった。当時の国家はイランの正統な政府だったが、常備軍を欠いたために、地方の部族長たちに権威を損なわれていた。即位したころの軍は3000人ほどにすぎず、部族長たちの軍より小さかったという。
即位するころのイランでは、バーブ教徒による反乱が起こっていたが、これを弾圧した。バーブ教の開祖セイイェド・アリー・モハンマド(バーブ)は1850年に銃殺された。弟子であったミールザー・ホセイン・アリー(バハーウッラー)はイラクに追放され、のちにバハイ教を興した。1852年にバーブ教徒の若者がナーセロッディーンの暗殺を試みて以降は、弾圧はさらに苛烈になった。統治の初期こそ改革的な傾向を持ったが、アミール・キャビールの進める近代化を疎んじ始め、1852年にこの宰相を暗殺して、専制的な傾向を強めることになった。対外的には、イギリスの支配下に置かれていた東部ペルシアの回復、とくにヘラートを目標としたが、イギリスがペルシャ湾の港町ブーシェフルを攻撃したため、退却せざるを得なかった。そしてパリ条約への署名を余儀なくされ、ヘラートは現在アフガニスタン領となっている。
ナーセロッディーンは、近代イラン君主として初めてヨーロッパを訪問した。1873年、1878年、1889年の3回、歴訪しており、最初の訪問ではヴィクトリア女王からガーター勲章を授与された。1878年の訪問の際にはイギリス海軍の観艦式に出席し、1889年の訪問では、ヨーロッパで接した技術に驚いたと報告されている。一方、この時代にはイギリスとロシアによる半植民地化も進んだ。1872年にはロイター男爵に、鉱山の採掘権や国立銀行、道路、電報、工場などの広範な利権を与えた。ロシアとバーザール商人の反対でほとんどが放棄されたが、その代償としてペルシア帝国銀行の設立認可を受け、イギリスによる財政、金融の支配が始まった。
1890年にはタバコの利権を与えた。20万人がタバコ産業に従事していたが、この利権は50年間、イランでのタバコ販売権をイギリス人に与える内容であり、新聞報道で秘密が公表されると、聖職者やバーザール商人から一斉に反対を受け、イランは騒擾状態に陥った。タバコ・ボイコット運動である。1896年、祈祷のために訪れたテヘラン近郊レイの廟で、ジャマールッディーン・アフガーニーの弟子に撃たれた。外套が厚く、遠距離からの射撃だったため、その場では亡くならず、死の直前に「生き延びたならば、違ったように統治するであろう!」と述べたと報告されている。シャー・アブドルアズィーム廟墓地に埋葬された。1878年の帰途にはロシアで榎本武揚らと面会し、使節の派遣で合意したが、日本との条約関係の成立は、彼の死から30年後のことであった。
同じ年に亡くなった人物
- H・H・ホームズ (1896年没)
- ジョン・ギボン (将軍) (1896年没)
- オットー・リリエンタール (1896年没)
- ルートヴィヒ・ザイデル (1896年没)
- ジャン・ミューラー (1896年没)
同じ地域に関係する人物
- Naser Malek Motiee (2018年没)
- アリー・ハータミー (1996年没)
- ゴラムレザ・タクティー (1968年没)
- モハンマドジャヴァード・バーホナル (1981年没)
- オロデス2世 (紀元前37年没)