伝記
プトレマイオス1世ソーテールは、エジプトのヘレニズム国家プトレマイオス朝の初代ファラオである。生年は紀元前367年とも紀元前369年から紀元前368年ともされ、紀元前282年に亡くなった。在位は紀元前305年から紀元前282年にあたる。アレクサンドロス大王に仕えた将軍であり、大王の死後はディアドコイ(後継者)の一人としてエジプトに拠った。「ソーテール」は「救済者」を意味する称号である。
マケドニア王国の貴族ラゴスの子で、母はアルシノエである。ラゴスをピリッポス2世の庶子とする古い伝えもあるが、王家の栄光を飾るための後世の作り話として退けられている。幼少から大王の側近の一人で、ピリッポス2世が息子のためにアリストテレスを招いて開いたミエザの学園で学んだ「学友」でもあった。大王と父王が対立した際にはネアルコスらとともに追放されたが、紀元前336年にピリッポス2世が死ぬと呼び戻され、厚遇された。東方遠征では将軍として従軍し、イッソスの戦いにも加わり、紀元前330年以降は側近護衛官の一人となった。反乱者ベッソスを捕らえて大王に引き渡した際には、初めて独立した指揮を任された。
紀元前323年に大王が没すると、バビロン会議で彼は重臣たちの合議制を提案したが、会議を主導したペルディッカスは、大王の妃ロクサネの出産を待つべきだと反対した。生まれた子はアレクサンドロス4世として王位につき、ペルディッカスは帝国摂政となった。プトレマイオスは会議の結果、エジプトの総督に任じられ、その地に割拠した。紀元前322年から紀元前321年にかけて、バビロンからマケドニアへ移送中だった大王の遺体を奪ってエジプトへ運び、のちアレクサンドリアに墓が設けられたという。紀元前321年末か翌年初め、ペルディッカスがエジプトへ攻め込むと、ナイル川の渡河に失敗して部下の将軍たちに暗殺され、プトレマイオスの地位は思いがけず固まった。
その後のディアドコイ戦争では、当初はアンティパトロスらと組んで戦い、のちにはアンティゴノスと対立した。紀元前312年にはセレウコスとともにシリアへ出撃し、ガザの戦いでアンティゴノスの子デメトリオスを破った。正統性を得ようと大王の同母妹クレオパトラに求婚したが、彼女はエジプトへ向かう途中でアンティゴノスに暗殺され、望みは絶たれた。紀元前306年のサラミス海戦で艦隊が大敗した後、翌紀元前305年に王を名乗り、セレウコス、カッサンドロス、リュシマコスと反アンティゴノス同盟を結んだ。紀元前301年のイプソスの戦いでアンティゴノスは戦死し、その後はセレウコスの台頭に備え、娘アルシノエをリュシマコスに嫁がせて同盟を築いた。多くのディアドコイが暗殺や戦死で非業の死を遂げるなか、彼は天寿を全うした数少ない一人となった。
内政では統治体制を固め、領土を東地中海まで広げて古代エジプトの繁栄を取り戻したとされる。首都アレクサンドリアには王立研究所ムセイオンと図書館、大灯台を築かせた。長男ケラウノスとは対立して追放し、紀元前285年には、後妻ベレニケ1世の子プトレマイオス2世を共同統治者として後継に定めた。自らアレクサンドロス大王伝を著し、これは歴史家アリアノスの主要史料の一つとなったが、アレクサンドリア図書館の火災で失われた。米国映画『アレキサンダー』では、勇猛果敢な知将で、物語の語り手としても描かれる。
同じ年に亡くなった人物
- プブリウス・コルネリウス・ドラベッラ (紀元前283年の執政官) (紀元前282年没)
- パレロンのデメトリオス (紀元前 282年)
同じ地域に関係する人物
- アレクサンドリアのカタリナ (305年没)
- カリマコス (紀元前240年没)
- コンスタンディノス・カヴァフィス (1933年没)
- ヒュプシクレス (紀元前119)
- Ad-Diba (2016年没)