伝記
オット=ギヨームは、マコン伯、ヌヴェール伯、そして初代のブルゴーニュ伯として知られる領主である。生年は955年から962年のあいだとされ、没年は1026年9月21日で、64歳で亡くなったといわれる。ディジョンで没したともされる。
父はイタリア王アダルベルト2世、祖父はイタリア王ベレンガーリオ2世で、二人が共同でイタリアを治めていた時期に生まれた。母はジェルベルジュ・ド・マコンである。父はドイツ王と戦って敗れ、プロヴァンスを経由してイタリアを離れ、オータンで生涯を終えたという。父は972年に41歳で亡くなり、ロンバルディアの修道院に預けられていた少年は、ある修道士とともにそこを抜け出し、ブルゴーニュの縁者のもとへ向かった。そのとき11歳ほどだったとされる。母は973年ごろにブルゴーニュ公アンリ1世と再婚し、オット=ギヨームは公の養子となった。ブルゴーニュに来て養子となったときに、ギヨームという第二の名を名のるようになったと考えられている。最初の名オットーは、帝国を再興しつつあったドイツ王の名に由来するともいわれる。
結婚は975年から980年ごろ、あるいは981年ごろとされ、相手はルシー伯ルノーの娘エルマントルドだった。エルマントルドはマコン伯オーブリー2世の寡婦で、この結婚によって彼はマコン伯の地位を得た。エルマントルドの母方の祖母ゲルベルガは神聖ローマ皇帝オットー1世の妹であり、この結婚は、のちのフランス、ドイツ、ブルゴーニュ、カロリング家の君主たちのあいだに血縁を結ぶことになった。二人のあいだには息子2人と娘3人が生まれた。長男ギー1世は995年以降マコン伯となり、997年には父が早くもこの長男を共同の統治者にした。次男ルノー1世はブルゴーニュ伯を継ぎ、ノルマンディー公リシャール2世の娘アデライードと結婚した。娘マティルドはヌヴェール伯ランドリーに、ジェルベルジュはプロヴァンス伯ギヨーム2世に、アニェスは最初にアキテーヌ公ギヨーム5世に、のちにアンジュー伯ジョフロワ2世に嫁いだ。
母ジェルベルジュは982年に、のちのブルゴーニュ自由伯領となるドル付近の地を息子に与えた。オット=ギヨームは990年までにヌヴェール伯ともなったが、母の死後は、母の寡婦領があるボーヌで伯の職を執ることを選び、ヌヴェールはおそらく娘マティルドの持参金として与えられたのだろうという。ソーヌ川の谷とその東に領国の中心を置くようになってからは、ギヨームよりもオットーの名を多く用いるようになった。ディジョンのサン=ベニーニュ修道院の守護者でもあり、修道院長ギヨーム・ド・ヴォルピアノとサン=レジェ小修道院の院長との森をめぐる争いの裁定の場には、ブルゴーニュ公アンリ、ラングル司教ブリュノ・ド・ルシーとともに立ち会った。
1002年にアンリ1世が亡くなると、ソーヌ川の対岸のブルゴーニュ公領を相続したが、公領をめぐってアンリの甥である王ロベール2世と争い、公領をめぐる戦いは1003年から1005年まで続いたとされる。1004年にはブルゴーニュがロベール2世によって王領とされた。1016年には、最後のブルグント王ルドルフ3世が皇帝ハインリヒ2世を後継者としたことに反発して反乱を起こした。オット=ギヨームの死後、ブルゴーニュ自由伯領は神聖ローマ皇帝の宗主権のもとに置かれることになった。エルマントルドは1005年ごろに亡くなり、その後はアデライード・ダンジューと再婚したとされるが、この結婚を裏づける決定的な証拠はなく、子はいなかった。
同じ年に亡くなった人物
- ハインリヒ5世 (バイエルン公) (1026年没)
- サン=カンタンのデュドン (1026年没)
- フリードリヒ2世 (上ロートリンゲン公) (1026年没)
- アデライード・ダンジュー (1026年没)
- 范寛 (1026年)
同じ地域に関係する人物
- アンリ1世 (ブルゴーニュ公) (1002年没)
- ジャン・ラプランシュ (2012年没)
- ジャック・コポー (1949年没)
- ロベール1世 (ブルゴーニュ公) (1076年没)
- アラン・ド・リール (1203年没)