伝記
ヘンリー・ジョージは、1839年9月2日、ペンシルベニア州フィラデルフィアの中下層階級の家庭に、十人兄弟の次男として生まれた。アメリカの作家、政治家、政治経済学者で、私的所有を前提としながらも、自然、とりわけ土地は人類の共有財産だという考えに基づき、諸税を廃止して地価税に一本化する土地単税を唱えた、ジョージズムの提唱者として知られる。十四歳で公式の教育課程を終え、1855年4月に十五歳で前檣士となってメルボルンやカルカッタへ渡った。一年数か月で帰郷し、植字工の徒弟を務めたのち、カリフォルニア州に向かった。一攫千金を狙ったが叶わず、1865年に新聞社に職を得て、印刷工から記者、編集者を経て社主にまで上り詰めた。
この間、十八歳のオーストラリア人女性アニー・コーシナ・フォックスと恋に落ち、孤児だった彼女と暮らす叔父の猛反対を押し切って、1861年に結婚した。夫妻は四人の子をもうけ、結婚生活は順調だった。ジョージ自身は福音派だったが、フォックスの母がカトリック系アイルランド人だったため、子供はカトリックの信徒として育てられた。長男のヘンリー・ジョージ・ジュニアは下院議員になり、次男のリチャードは彫刻家として成功した。ジョージは当初リンカーンの共和党員だったが、のちに民主党へ移り、カリフォルニア州議会議員選挙にも出馬した。政治に関わるなかで政治腐敗や労働者の惨状を強く批判するようになった。1871年、サンフランシスコ湾に偶然立ち寄って、運命的な光景を目の当たりにした。
その後訪れたニューヨークでは、貧困層の暮らし向きが、発展途上のカリフォルニアの貧困層よりも遥かに劣悪だという明白な矛盾に衝撃を受けた。これらの経験をもとに、1879年に『進歩と貧困』を出版した。同書は三百万部を売り上げるベストセラーとなり、自由市場経済で築かれる富は地主や独占資本家に握られ、不労所得の集中こそが貧困の主たる原因だと論じた。生産活動が重税に苦しむ一方で、天然資源という限られた手段から私的利益が得られるのは不正義の極みであり、かかる制度は奴隷制に等しいと主張した。自身が貧困層だったことや海外渡航の経験、急成長のカリフォルニアでの暮らしがこの仕組みを見出す土台になったとされ、鉄道建設によって地価や地代が賃金の伸び以上に上昇した事実にも目を付けていた。
1880年、一躍著名な作家となったジョージはニューヨークに転居し、アイルランド独立を標榜する組織と緊密な関係を持つようになり、アイルランドやスコットランドにも足を運んだ。1886年にはニューヨーク市長選に統一労働党から出馬し、のちの大統領セオドア・ルーズベルトを上回る得票を得たが、タマニー・ホールが擁立したヒューイットに敗れた。翌1887年にはニューヨーク州務長官選に出馬して三位で落選し、統一労働党は内部分裂を起こして衰えた。1897年の市長選には、医師らの忠告を無視して独立民主党から再び立候補したが、選挙の四日前の10月29日、脳卒中で死去した。葬儀には十万人が集まった。
電信電話や水道事業は公営にすべきだとし、政府認可の独占資本家には極めて批判的だった。保護主義が支配的な時代に、一貫して自由貿易を支持し、秘密投票の導入をアメリカ国内で最初に主張した論者の一人でもある。若いころの中国人移民の制限論は、のちに論考が未熟だったと認めたものの、見解を終生変えなかった。死後は知名度が次第に薄れたが、バーナード・ショーやトルストイ、孫文らが彼の影響を受け、彼の支持者が作ったゲームは「モノポリー」へと発展した。
同じ年に亡くなった人物
- チャールズ・ボイコット (1897年没)
- リジューのテレーズ (1897年没)
- クロード・トマ・アレクシス・ジョルダン (1897年没)
- ウィレム・ルーロフス (1897年没)
- ヴィクトル・マイヤー (1897年没)
同じ地域に関係する人物
- ヴァージニア・クレム (1847年没)
- オリヴァー・ウォルコット (財務長官) (1833年没)
- ベニー・パレット (1962年没)
- ジョー・ジョーンズ (1985年没)
- モーガン・テイラー (1975年没)