伝記
アッピウス・クラウディウス・カエクスは、共和政ローマ期の政治家・軍人である。クラウディウス氏族のパトリキ(貴族)の出で、紀元前349年の執政官アッピウス・クラウディウス・クラッススの孫にあたる。氏族は代々弁舌に優れ、平民の敵として描かれてきたが、彼にもその面が見て取れる。二つ名のカエクスは盲目を意味し、アッピア街道とアッピア水道の建設者として知られる。
紀元前312年、第二次サムニウム戦争のさなかにケンソルに就任した。同僚はガイウス・プラウティウス・ウェノックスである。解放奴隷の息子をローマ市民として元老院に入れる道を開き、土地を持たない市民をトリブス民会に割り振って投票権を与えた。これらは下層の不満を抑え、戦争に必要な税や労役を負担させるための政策だったとも、平民と争う際の支持者を増やすためだったとも考えられている。市民や貴族の反感は強かったと伝えられる。リウィウスによれば、元老院議員の選び方で恨まれた同僚が辞職したあと、彼は一人で工事をやり遂げたという。ケンソルの任期は1年半に短縮されていたが、アッピウスは同僚が辞めても自分は辞めず、その法は当時のケンソルにしか効力がないと詭弁を弄した。護民官センプロニウスが逮捕を命じたものの、十人の護民官のうち三人が反対したため、ケンソルを続けたという。
紀元前307年に執政官となり、同僚ウォルムニウス・ウィオレンスらが外敵に当たる間、内政に専念した。紀元前300年、平民にも神官とアウグルの職を開くオグルニウス法が提案されると、これに反対し、支持するデキウス・ムスと論争したが、法は成立した。紀元前296年にも、ウォルムニウスとともに執政官を務めた。エトルリア戦線では、援軍を求めながら駆けつけた同僚を追い返そうとして将校たちにとりなされ、共同して敵を破った。リウィウスによると、この戦いの最中に彼は戦の女神ベローナへの神殿奉献を誓い、ローマ軍は7800人を倒したという。翌紀元前295年にはプラエトルとして同じ戦線を担当したが、到着した執政官ファビウス・マクシムスに陣営の柵を叱責され、ローマに召還された。センティヌムの戦いのあとは、デキウスの残存部隊を率いてウォルムニウスとサムニウム勢を破った。碑文には、ケンソル1回、執政官2回、独裁官1回、プラエトル2回など、堂々たる経歴が刻まれている。
晩年にカエクスの名がついた理由には、長年の労苦のためとする説と、ヘラクレスの祭司を買収して秘儀を明かそうとして呪われたとする説がある。リウィウスは、ケンソル時代にヘラクレス神官を代々務めたポティティウス氏族から祭祀を国家の奴隷に引き継がせたため、神の怒りで氏族は絶え、彼も盲目になったと述べる。ディオドロスはより辛辣で、元老院の恨みをかわすために失明を装って家に引きこもったとする。
紀元前280年に始まるエペイロス王ピュロスとの戦争で、ローマは敗れながらもピュロスに犠牲を強いた。ピュロスが副官シネアスを和平交渉に送ると、眼病で休んでいたカエクスが元老院に現れ、諦めないよう演説したという。ローマは戦い続け、ベネウェントゥムの戦いでピュロスを引き分けに持ち込み、イタリアから撤退させた。この戦いを指揮したのは、彼が執政官就任に強く反対していた平民出身のクリウス・デンタトゥスであった。この話は、講和は勝利したときに行い、敗れたときには結ばないというローマの伝統の由来とされるが、信憑性は低いという指摘もある。紀元前273年に没した。
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