HISTORICAL PERSON · 1037年没

ロベール2世 (ルーアン大司教)

ルーアン大司教兼エヴルー伯。5人のノルマンディー公を支え続け、甥ロベール1世を一時は破門にしつつも和解し、その聖地巡礼中は実質的に公国を統治した。

生涯
1037年没
死亡地
—
出生地
フランス共和国(カルヴァドス県 / ノルマンディー公国)
出典
世界地図
フランス共和国(カルヴァドス県)

伝記

ロベール2世は、1037年に没したルーアン大司教であり、エヴルー伯でもあった。ルーアン大司教の在位は989年から1037年にわたる。ノルマンディー公家の出身で、5人のノルマンディー公を支えた有力な高位聖職者である。デーン人ロベールとも呼ばれる。

父はノルマンディー公リシャール1世、母は父の2番目の妃グンノールで、リシャール2世の弟、ロベール1世の叔父にあたる。987年から989年ごろ、まだ非常に若いうちに父からルーアン大司教の座を授けられた。ノルマンディー公国の主要な教会の座で、ノルマン人が任命された最初の例だったという。年代記家によれば、聖職者たちは、公がグンノールと教会の作法で結婚しない限りこの決定に反対したが、公は聖職者の望みどおり結婚した。ロベールは自分が聖職者となる運命にあることを承知しており、喜んで大司教職を受けたとみられる。エヴルー伯領も与えられ、996年の父の死の直前か、大司教職と同時とされる。二つの職を兼ねたことで、公に次ぐノルマンディー第一の有力者となった。ただし文書では伯の称号を用いず、大司教を名乗った。

ロベールは妻帯した大司教で、子もいた。妻はおそらくテュルスタン・ル・リッシュの娘であるエルレーヴ(アルレット)で、子にはエヴルー伯リシャールらがいた。歴史家ネヴーは「宗教者というより俗人に近い大司教」と評する。年代記家オルデリック・ヴィタルは、司教たるべき者として肉の快楽を拒まなかったと批判した。また財産の横領も指摘され、ルーアン大聖堂、ジュミエージュ修道院、トリニテ・デュ・モン修道院の財産を侵したとされる。一方で、1013年ごろに後の聖オーラヴの洗礼を行い、大聖堂参事会を設けて首席司祭を置いた。1020年代末には大聖堂の拡張に着手し、内陣をロマネスク様式で再建して地下祭室を設けた。これはノルマンディーのロマネスク建築の基礎を築くものとなったが、工事は彼の死で中断した。フェカンやサン・ヴァンドリーユなど多くの修道院聖堂の献堂にも臨み、芸術家を庇護した。発掘調査により、グラヴァンションの城を、早い時期に田園の宮殿に変えたことも確かめられている。イングランド王エゼルレッド2世の妃エマからは、絵で飾られた豪華な詩篇集を贈られ、自身もルーアンの教会に祝祷書を寄進した。息子リシャールは、1037年にエヴルー伯となった際、憲章で自らを「大司教ロベールの子」と堂々と名乗っている。

1026年にロベール1世が兄の後を継ぐと、大司教との間に争いが生じた。1028年、大司教は甥のロベール1世に包囲されて追放され、同じく公の支配に異を唱えたバイユー司教ユーグ・ディヴリーも包囲された。亡命先から大司教は甥を破門し、ノルマンディーに秘蹟執行禁止命令を下した。最終的に二人は合意し、公は大司教を座と伯位に戻して財産を返し、教会財産も返還した。大司教と公は1028年ごろから1033年ごろにかけて、奪われたルーアン大聖堂の財産を取り戻す作業も進めた。1033年にブルターニュ公アラン3世との戦いが起きると、両者の叔父である大司教が和平を仲介した。

1035年、公ロベール1世はエルサレム巡礼に出発する前、庶子ギヨームを後継者と定め、大司教ロベール2世にその監督と後見を託した。公は帰らなかったが、ロベール2世は1037年に死去するまでギヨームの摂政としてノルマンディーを実質的に治め、その間に無法行為が増えた。死後、大司教位は甥のモージェが継いだ。

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